Jazz Pianist
Egypt 2019
Texts and Photos by Takeshi Asai
|
第1話 7月30日/31日 第7回十字軍 |
フランス国王ルイ9世が13世紀に起こした第7回十字軍の船隊は、王妃マルガリータ・デュ・プロヴァンスの故郷、南仏のプロヴァンスを出港しエジプトに向かった。塩の産地として有名な南仏の街カマルグには、今もなお、十字軍が出港して行った長方形の砦が残る。私は、そのプロヴァンスから金曜日にNYに戻り、土日の演奏とたった1日のオフを挟んで火曜日にエジプトに飛んだ。 エジプトでコンサートをすることになろうとは夢にも思っていなかったが、素晴らしい縁をいただきカイロとアレクサンドリアでコンサートをすることになった。私が研究をしている(笑)ルイ9世の因縁なのかどうかは知らないが、地中海を挟んで全てが対極の国、南仏とエジプトで演奏を行うのだ。 出発はいつものようにJFKから。EgyptAirでは随分とチェックインの勝手が違う。搭乗客はほとんどがエジプト人で、中には大型液晶パネルを持ち込んだり、一人で10個ものトランクケースを持ち込む人もいる。少々古い飛行機ではテーブルが傾いていて、手で押さえていないと機内食がこちらに流れてくる。機内食もビーフとジャガイモと卵の無骨なエジプト料理であるが、大食漢の私には嬉しかった。 機内ではフランスとNYの演奏の疲れが出たのか眠りこけた。途中目を覚ますと、アドリア海上空を飛んでいた。ギリシャの上を飛んでエジプト入りだ! 10時間のフライトの末に、太陽が眩しいカイロ空港に着く。人がまばらでニース空港のあの明るさとおしゃれ感は全く無い暗い空港であった。25ドルでビザを買う。それをパスポートに貼って入国。ビザってそういうもの?かなり待って荷物を受け取る。そのあとはUberだ。驚いたことにこの国でもUberが使える。空港でも”Uber in Arabic is Uber.”と大きく宣伝している。英語がほとんど通じないUber運転手と、待ち合わせ場所の混然さ、それに焼け付くような太陽の下でのピックアップはかなり苦労した。が、香港帰りという若いハンサムなエジプト人がわざわざ運転手に電話をして話をまとめてくれた。感謝! 私は出かける国の言語はなるべく覚えようとするのだが、今回はアラビア語を何一つ覚えていない。運転手に「Thank you」は何というか聞いてみた。「ショコラ」だそうだ。フランス語のチョコレート?そいつは覚え易い。 途中の景色は壮大で、今まで見てきた国々とは全く違う砂漠であった。緑の全くない荒地に砂が舞う。最近は海外の資本が入ってきているのかCocaCola等の西洋の看板を見るが、アラビア語で書かれた道路標識の高速道路を、荷物を山のように積んだ小さなトラックが走る。砂漠の際には崩れかけた建物が密集し一見するとスラムのような街が続く。かなりの頻度で月のマークの塔が立った建物がある。イスラム教の寺院、モスクだ! 今回は、カイロ在住20年というベテランの日本人の新聞記者のアパートにお世話になる。最初はネットでカイロのダウンタウンにホテルを取っていたが、治安が悪いというので現地の方からホームステイのオファーをいただいた。そこに何とかUberで辿り着かねば。かなり近づいたと安心していたら、そこからは車が入れないというので、途中で降ろされた。困った。場所もわからないし荷物もある。仕方ない。GoogleMapを頼りに自分で歩く。太陽が焼けるように熱い。道はボコボコでトランクケースを頻繁に持ち上げなければいけない。ごった返した路地に、馬とロバと猛スピードで原チャリに毛が生えたようなタクシーが駆け抜けていく。いきなり大変な試練を味わっている。不味い、iPhoneのバッテリーが無い!時差ぼけの体に40度はあるのではないかと思うこの暑さは応える。現れる女性は全てベールを被っており、強烈にエキゾチックである。 かなり心細くなりながらも必死で荷物を引きながら歩いていると、いきなり「アサイさん」と呼ぶ女性がいた。今回の世話役を買ってくれた現地の女性である。ホストの日本人ジャーナリストの下で働くエジプト人秘書で、なんと日本語が堪能なのだ。私が着くのをずっと玄関で待っていてくれたそうだ。救われた!安堵感と汗が滝のように流れた。早速クーラーの入った部屋に入り、彼女がラザニアとモロヘイヤのスープを作ってくれた。モロヘイヤってエジプトの植物だそうで、ねばりっこいものは日本人の口に合うと彼女がスープにしてくれた。 食後はベッドに入って眠りこけたいところであるがそうはいかない。まだ外は明るい。食後に近所に散歩に出る。いやー、これ異文化!生きたひよこが段ボール箱に入って鳴いていたり、サボテンのようなものを並べて売っていたり、タライに入れた魚を猫を避けながら売っていたり、ヘチマが積まれていたりする。 こうして今日から9日間、エジプトの生活が始まる。とりあえず無事に着いて自分のベッドがあることに感謝。 (続く) |
第2話 8月1日 「スラム街」VS「目抜き通り」 |
時差ボケと暑さで寝られない。夜の3時のお祈りが始まってしまった。そう、ここは夜中の3時に町内のスピーカーで大音量の祈りを捧げる。国民の90%が敬虔なイスラム教徒で、一日5回お祈りがある。そしてその最初が午前3時、モスクの塔に取り付けられたスピーカから低い男性の唸りが鳴り響く。その音調は西洋音階とは別のもので、それだけで別の世界に来たことを実感できる。が、寝られない夜に聴くものではない。それにお祈りだけではない。一体みんないつ寝ているのだろうと思うくらい街が騒々しい。しかも人だけでなく、犬の鳴き声があちこちから聞こえてくる。街には野犬が群れているのだ。 それでも午前4時になんとか寝て、朝11時に全身汗だくで目が覚めた。エジプト人の女性秘書、ザリカさんが朝ごはんを作ってくれた。エジプトのチーズと卵、それに地元のパン、ちょうどインド料理で出てくるナンに近い円形のパンだ。彼女が心を込めて作ってくれた朝食はかなりエキゾチックであったが嬉しくて完食した。なんと、彼女は今回の演奏パートナーもホストしてくれていて、今日は彼女の家でリハする。仕事途中なのに、昼に彼女が家まで一緒に電車で連れて行ってくれるそうだ。なんという優しい女性だろうか。 というので、急いで支度をして彼女と家を出る。私はこの界隈は「スラム街」だと思っていたら、彼女はここは「目抜き通り」だという。これには参った。確かにKFCなんかもあるが、このゴミと瓦礫の山と廃車と野良犬が彼女には見えないのかなぁ(笑)。駅の反対側に歩道橋で渡ると、そこは私の目には更なるスラム街に見えた。が、彼女によると、ここは色々な食材が買える便利な通りだそうだ。彼女が得意になって勧めてくれたのが、昨日珍しくて写真に撮ったサボテンである。目をつぶって(失礼)食べたら、以外と甘くて美味しい。しかしこの界隈、売っているものが強烈である。猫がたかっているタライに魚を入れて売っている女性、コンクリートの上に並べて干しているパン屋、さらには生きた牛も売っている。明日のお祭り用で、買って帰って家族で解体するそうだ。きわめつけは、羊屋さんで、その場で解体して焼いて食べさせてくれる。おとなしい羊たちが自分たちの運命に気づいていないのか、みんな平和そうな顔をしていた。 電車に乗る。冷房のある混んだ電車と冷房の無い空いた電車を選べるらしく、彼女は冷房はないが座れる電車を選んでくれた。急行も通勤快速も準急もない。ひたすら各駅に停車して40分ほどで彼女の住む街につく。ここに着くと、確かに先ほどまでいた街は綺麗かもしれないと思う(笑)街が広がっていた。店頭にオレンジとマンゴーを吊るして売っている店に彼女が立ち寄った。私はすかさずオレンジジュースを所望。ジュースを小さなコップに入れた後ビニール袋に空けて、ストローをさして出してくれた。エジプト流のto goである。一気に飲み干した。 しばらく、私の目にはスラム街に見える(失礼)道を歩くと、私の目にはゴーストタウンに見える(失礼)ビルが見えてきた。彼女のアパートだそうだ。最上階の5階(6階)までひたする階段を登ると汗が噴き出す。気温は99度である。 室内には冷房がない。使えるソケットが一つしかないらしくて、扇風機が一つあるだけ。他の電気が必要な時には切り替えなくてはならない。パートタイム扇風機であった。とりあえず、今回の演奏パートナーと先回ワシントンDCのミュージックフェスティバルで演奏して以来の再会で、彼女はすっかり日に焼け、見た目はエジプト人になっていた(笑)。 この暑さとカルチャーショックの中で明日のコンサートのプログラムなんて、あまりにも遠い次元のように思えるのだが、頑張って頭をシフトして演奏曲目をまとめた。 親切なエジプト人の彼女は、私たちに又しても美味しいご飯を作ってくれた。美味しいジャガイモのスープにトマト、それにパンであった。彼女は日本が大好きで、もう何回も日本に行っている。八月にまた日本にホームステイを三週間するそうだ。 さて、リハも上手く行き、美味しいエジプトの手料理でお腹が一杯になって家に帰ろうかと思ったら、夜は繁華街に出ることになった。モハメッド(会う人のほとんどがこの名前である)というハンサムなエジプト人がガイドをしてくれて、夜のカイロに繰り出した。が、この人の多さと混沌さ、それにこの温度、まだエジプト二日目の私にはかなり辛い。それに、初めての場所で一人で深夜に電車に乗ってあの「スラム街」を通って帰る緊張感で、11時で帰路につかせてもらった。降りた駅から野犬が遊ぶ夜道を歩いて帰り着いた時にはホッとした。長い一日であった。 (続く) |
第3話 8月2日 埃の国 |
今日はエジプトツアー最初のコンサートである。一昨日の夜が4時まで眠れなくてかなり身体にこたえたのであるが、今朝はマシになるどころか一睡もできなかった。最初のコンサートで緊張しているから?それは無い。やはり暑さと騒音と時差ボケだと思う。それに、強いて言うなら文化の差だろうか。アメリカでもフランスでも感じなかった孤独感を心底感じた。 一睡もできないまま、朝7時にベッドから起きて、お腹だけは減るので昨夜買っていたパンとコーヒで朝食。お腹が一杯になるとやっと眠気が出てきたので、その後昼まで寝た。よかった。人間に気持ちなんて不思議なもので、体が休まると「この異国の街で音楽の感動を届けるんだ」と少し希望が出てきた。 せっかくなのでちょっと早く出て駅前を散策してみた。何と楽器屋がある。中に入るとエジプト人だが(エジプトの男性は全員同じ短髪型である)髪型がレゲエのお兄ちゃんが出てきて、きちんとした英語で対応してくれた。そのレゲエ姿にホッとする自分がいた(笑)。周りには、水煙草の不思議な装置、骨董品なのか家具屋なのかわからないが、擦ると煙の出るランプが出てきてもおかしくないくらいエキゾチックな品を売る店がある。そして、モスクがある。その前に本場のアラビアコーヒーを淹れてくれる屋台がある。これは飲むしかない。これもまた、エキゾチックな容器を熱した砂に乗せてコーヒーの粉を一杯一杯溶いて小さなコップに入れてくれる。粉っぽくて苦いが、コーヒー好きの私には非常に美味しい。 ちょっとした小旅行ですっかり気分を良くした私は電車に乗って集合場所に向かう。で、電車を間違えた。逆方向に進んでいることに気がついて慌てて降りたところはHelwanという駅で、名前の通り(笑)灼熱砂地獄であった。崩れかけた建物が永遠と並ぶ砂漠の街には人がほとんどいない。駅の構内の階段や廊下の隅には砂が溜まっている。古い日本映画に安部公房原作の「砂の女」という作品があるが、リメークを作るならここで撮れば良い(笑)。全てが砂一色で、まるでStar Warsに出てきたどこかの惑星に来たようであった。 そういえば、昨日、日本語ができるエジプト人の女性が「漢字でエジプトのことを埃の国と書くのよ」と教えてくれた。私が「それは失礼だ」と返したら、彼女は笑いながら「今にわかるわ」と言った。その通りであった(笑)。 というわけで、随分と時間がかかったが、電車は彼女の街に到着。私が迷うといけないので、相棒が駅まで迎えに来てくれた。一台の扇風機をパートタイムで回して、みんなで食事をする。でも彼女が腕をふるって作ったくれた料理は最高であった。マハシというエジプトの伝統料理で、同じ大きさのズッキーニ、茄子、ペッパーの中に、コメを詰めて煮た料理で、日本人には合う。それに、ビーフのシチューも出てきた、何だか生き返った気がした。最高のコンサート前の腹ごしらえであった。 すっかり良い気分になったところで、エジプト人の旦那さんがクラブまで車を出してくれることになった。私の目から見るとゴーストタウンのアパートに住んでいるようだが(本当に失礼)、驚くことにちゃんとポーターがいて、車を持ってきてくれる。車は私の目から見るとかなりのボロであるが、他の車と比べればかなり上等であることがわかってきた。が、それ以上に強烈なのはその運転であった。乱暴なんてものではない。まず道路に車線が無い。空いていれば最高の速度でどんどん入る。クラクションはいつも最大級に鳴らしている。老人や子供がいようが、避けてくれるものとしてかっ飛ばす。そこに、ロバと馬という低速車が混ざり、さしずめディズニーランドのスターツアーズに乗っているように心拍数が上がる。今度歩行者になった時は、絶対に避けてくれないという貴重な教訓を学んだ。 そんな「乱暴な」運転をしながらも、彼は色々と街のガイドをしてくれる。車がカイロの中心部に入り、巨大なモスクにちょうど夕暮れが見える。壮大な景色だ。そのまま革命で有名なカヒール広場を抜け、そして初めて見るナイル川に出た。これがあのナイルなのだ。で、降ろされたのがRoom Art Cafe。砂漠の真ん中にいきなりブルックリンのようなカフェと英語を喋る音楽好きなおしゃれな若者がたくさんいた。このギャップは何だろう。サウンド担当の若い女性は本当に良い人で、私のシンセの音を頑張って調整してくれた。しばらくすると、えらくおしゃれなエジプトの若者がさらに集まり会場が埋まる。 演奏は、自分としては課題が残ったが、みんなには楽しんでもらえたようで、明日遊ぼうぜというエジプト人のフィルムプロデューサー、先ほどのソフトシンセが気に入ったという若者(やっぱ、オタクはどこにでもいる)など友達ができた。それに、今回のツアーを支援していただくことになった日本の政府機関と海外青年協力隊の皆さんが沢山応援に来てくれた。 正直びっくりした。もちろん女性は大方ベールを覆ってはいるが、今までいたスラム街(失礼)からは想像もできないおしゃれでモダンなカイロの一面があった。と言いながら、演奏後にアイスコーヒーを飲んで帰りの電車に乗ろうと街に出ると、先ほどのカフェは蜃気楼であったかのように、もうそこは砂埃と夜が更けても90度はある灼熱地獄であった。 が、2回目の帰宅となると少し慣れて、なんとか深夜に滞在先に帰宅。音楽を喜んでもらえたこと、エジプト人の友達ができたこと、喜びが演奏の反省を隠してくれた(笑)。 そして、三日目の夜にして初めて熟睡した。 (続く) |
第4話 8月3日 眠れね夜 |
昨夜のコンサートが上手く行って、エジプト人の友達もできた。そして、ここに来て初めて快眠をした。明け方3時のコーランの祈りも寝倒すことができた(笑)。すっかり気を良くして、大好きになり始めたカイロの観光に出かけることにした。今日はツタンカーメンのマスクがあることで有名なエジプト美術館と革命の舞台となったタヒール広場に出かける。 最近慣れてきた電車、楽しんで切符を買って間違えずに乗車。カイロの人口構成は極めて純粋で、外国人はほとんどいない。しかも、男性は皆同じ短髪であるので、長髪の私はどこから見ても目立つのであろう。常にジロジロと好奇心の視線を感じる。 目的のサダト駅に到着。長いアラビア語と短い英語が表記してある出口の案内は難解なので、とりあえず地上に出てみた。一気に強い太陽と40度近くはある熱い空気が襲ってくる。目で博物館を見つけてそちらに向かう。チケットは何をみたいかによって値段が違うが、ツタンカーメンを見なければ話にならないので、All Inclusiveを買って入場。が、なんと館内はカメラの持ち込み禁止。というか、高いカメラチケットを買えと言う。iPhoneなら良いとのこと。最近のiPhoneカメラは捨てたものではない。 エジプトのギザや王家の谷の副葬品はイギリスを始めとした西洋諸国の探検家によって随分多くが海外に持ち出されたとされている。その一端をメトロポリタンでも見ることができる。が、さすが本家、まだまだかなりの数がここに展示してある。 3500年の年月を経て今でも輝いている金と宝石のマスクは驚きである。生前の顔の特徴を似せて作ってあるそうで、それが復活を迎えた際の神の識別の手がかりとなると信じられていたそうだ。それ以外にも色彩豊かなヒエログリフ、鷹、猫、ミミズ、アンクを持った神々(イスラム教以前のエジプトは多神教であったはずだ)に守られてあの世に出かけて行く色彩豊かな絵と一緒に、ゾッとしてしまうミイラが並んでいた。 しばらくすると本日の目玉であるツタンカーメンの部屋に入った。ここはiPhoneでも撮影禁止である。中央に有名なマスクがあった。思ったよりも小顔である。彼は確か19歳で死んでいるので、この顔が若者であっても不思議ではない。きっとこのマスクに似たエジプト流の美青年であったのだろう。 最後に、ロイヤル・マミー・ルームなるものがあった。一瞬、この手のものはこれ以上観たくないとも思ったのだが、お金を払ってしまっている。入ることにした。部屋の中には、かなりの数のミイラがそのまま並べてあり、一つ一つに説明があり、国王、女王の名前、享年、身長、ミイラ化の特徴が記載してあった。アメリカ人の夫婦が写真を撮ろうとして注意されていた。この写真を撮りたいのかなぁ。律儀に全てを見た私はちょっと疲れてしまった。 博物館を出てナイル川まで歩いた。が、全力で走ってくる車をかいくぐって広い通りを渡るのは至難の技であった。本当は向こう岸に見えるカイロタワーまで歩く予定でいたが、先週まで南仏にいた私にこの暑さはこたえる。それにこの道路状況。タワーは、わざわざ行く価値はないと判断。それに、非常に空腹で口が乾いて、何処かに入りたい。なんと、そんな私に罠でも仕掛けているのか、Cafe Poivreというフランス語のカフェがあったので、すかさず入ってピザとアイスコーヒーを頼んだ。が、出てきたピザは最悪であった。私は食べ物に孝綽を言わない。でも、出てきたものは形こそピザであるが、ソーセージもチーズも全て味が違う。油も何かおかしくて食べている間に胃がおかしくなってきた。 外へ出ると気温は99度であった。もう帰ろうと思い駅まで歩いていると、ニコニコしたおじさんが英語で話しかけてきた。親戚がオハイオにいて、彼は画家で日本で個展を開いて帰ってきたばかりだという。彼の画廊がすぐそこにあるから寄らないかという。すぐというのなら寄ってみた。そうしたら、若い男性が、私もアーティストだ。これは全部僕の作品だ。欲しいものはプレゼントする、名前はなんていうんだい?タケシ、アラビア語ではこうやって書くんだと言って、絵に私の名前を書いてくれた。もっと持って行ってくれ。どれが好きかい?私が指差すものに、どんどん私の名前を書く。私はこいつはおかしいと思い始めた。数枚をいただいて帰ろうとするとお金を少し置いて行ってくれという。10パウンド(60セント)を渡すと、「これじゃただ同然だ」という。私は笑いながら「ギフトってタダなんじゃないのかい?じゃ、いらないよ」と私の名前が書かれた絵を全て床に置いて立ち去った。顔は笑っていたが、心は打ちのめされた。 駅から滞在先まで、現地の人が言う「目抜き通り」、私には「スラム街」に見える街を歩いていると、いきなり少女が腕に抱きついてきた。物乞いだ。振りほどこうとすると彼女は私の腕に噛み付いた。歯型が残った。 その夜、私はエジプト在住20年のベテランジャーナリストと話し込んだ。私が今日観てきた、死後の世界、平気で嘘をつく人々、貧困にあえいでいる少女、イスラム教、軍事政権、ムスリム同胞団、スンニ派とシーア派の対立。 そして眠れね夜となった。午前3時のお祈りが大音量で窓から入ってきた。 (続く) |
第5話 8月4日 その1 ピラミッド |
毎朝大量の汗をかいて目が覚める。オフ二日目、今日はUberでピラミッドに行く。天気は晴れ、天気予報は毎日ずっと同じなのである。 クーラーが効いた車でギザに向かう。途中でナイル川を渡る。壮大だ!砂漠に流れる唯一の川で、その周りにのみ緑がある。その上流には王家の谷、ルクソールが有り古代の文明が存在していたのだ。アガサクリスティーの「ナイル殺人事件」を思い出す。 ギザはカイロ市街からは近く、20分ほどでピラミッドが見えてきた。運転手は入り口のチケット売り場に近いところで降ろしてくれた。チケットを買う。何やら複雑なシステムのようだが、全てを網羅した一番高いチケットを買った。それにしても暑い。最初にした乾き対策はコーラの一気飲みであった(笑)。 さて、ここからが大変である。日陰が一切無い大変な温度の砂漠を歩くのである。悪徳ガイドによれば全部で8キロだそうである。そうやって脅して、やれラクダに乗れ、馬に乗れ、人力車に乗れ、アラビアのロレンスの帽子を買え、水を買えとしつこい限りの押し売りが押し寄せて来る。少し賢いやつは偉そうにチケットを見せろと命令する。一切関わるなと入れ知恵されている。全て振り切って、頑張って歩いてやっと最初のピラミッドに到着。ユネスコ世界遺産だけあって、凄い迫力である。 さらに歩くと世界一の大きさを誇るクフ王のピラミッドが見えてきた。頂上の方は滑らかな斜面になっているが、途中から崩れている。このピラミッドを撮るために、16mmの広角レンズを買ったのだ!が、被写体が大きくて構図に苦労する。強烈な太陽でファインダーが超見辛い。それに日陰の全くない灼熱の太陽で、集中力を持続するのが難しい上に、相変わらず押し売りがうるさい。中には「これはギフトだ(出た!)」と品を手に押し付ける輩もいる。 クフ王の石室の入り口に来た。入ろうとすると別のチケットが要ると言う。最高額のチケットを買ったのに?また詐欺だと思ったが、賄賂は要求せずにチケットオフィスに行けと言う。この炎天下をもう一度入り口に戻る?周りにはスペインからきた若者の団体がいて、皆ブーブー文句を言っている。みんなが、その係員にお金を渡すからと申し出たが、エジプト人には珍しく潔癖なのか融通が利かないのか、全く受け取らない。 仕方ない、とりあえずスフィンクスを先に見て、その後で考えることにした。砂に埋もれた石畳をスフィンクスに向けて歩いた。ある男性が掃除をしている。すると私を見て「こうやって掃除をしているから金をくれ」と言う。え!。しばらく歩くと「ラクダに乗れば楽だ」とアラビアのロレンス風の男たちがやってくる。格好良いので写真だけ撮らせてもらった(笑)。 途中に、石の柱が並ぶ神殿を抜けるとスフィンクスの後ろ姿が見えてきた。正面に廻る。確かに体は座っている猫で、顔が人間である。その昔、スフィンクスは通行人に「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足で歩く動物はなんだ?」というナゾナゾを出して、答えられない者を食べていたと言う。そこに賢者エディプスが現れ「人間だ。赤ん坊の頃はハイハイして、大人になったら二本の足で歩いて、歳をとったら杖を使う。」と見事に解いてしまった。スフィンクスはショックで崖から飛び降りて死んでしまったと言う。エディプスって、ソポクレスが書いた父親を殺して母親を娶ってしまったあのギリシャ神話の悲劇の主人公? 子供の頃に親戚縁者がテレビで「ピラミッド」と言う映画を見たことを思い出した。子供の私は途中で寝てしまい、翌日親戚のお姉さんに映画の結末を聞いた。最後は陰謀が失敗し皆ピラミッドの中で流れ落ちる砂の中で殉死すると言う壮絶な内容であった。ピラミッドを作った奴隷たちも全員秘密を守る為に殺されたと言う。4500年前にこれを作った高度な文明には、すでに壮絶な権力争いと人の命など厭わない貧富の差があったのだ。 貧富の差、殺風景な出口を出ると今度はぼったくられるから絶対に乗るなと聞いているタクシーの運ちゃんたちがぶっ飛んでくる。Uberを呼んだ。待っているとまた、少女が腕にまとわりついてきた。女性が物乞いにきた。 車窓からは、相変わらずの砂漠と砂に覆われたカイロの集落が見える。殺伐とした風景の中に、銃を持った軍人もかなりいる。高速道路を走っているのに、ロバや馬という低速車が走り、人も歩き、露店も出ている。そこを車が高速で走り抜ける。 車がナイル川を越えた時に、私はハッとした。川の周りは豊かに緑が茂っている!ひょっとしたら4500年前は、このピラミッドの辺りにはナイル川の水があり、この川岸のように緑だったのではないか。そういえば、ピラミッドの石は運川を作って積み上げたと言う学者もいる。と言うことは、何故にこのナイルの水を灌漑してカイロに引かないのだ。そうすれば緑化した素晴らしい街になるのではないか。 後で現地の友人に聞いてみたら、今上流にエチオピアがダムを造って、水資源の争いが起こっているとのこと。何とも複雑な事情があるようだ。 (続く) |
第6話 8月4日 その2 コプト教寺院 |
本日の大目玉、ピラミッド観光から無事に家に着くと、演奏の相棒から、遊びに行こうぜとの誘いが入った。先日会ったモハメッドが案内してくれるという。 エジプト四日目にして私は「ぼったくりに怯えるか弱い観光客」から、自分のアジェンダを持ち「自分の意見をハッキリ伝えられる強者観光客」へと変貌をとげようとしていた(笑)ので、マール・キルギスに6時半集合だ!と伝えたが、7時半にオールド・カイロと逆提案を食らった。みんなコプト教には興味がないのかなぁ。 私は大有りだ。一人で電車に乗ってコプト教の寺院があるマール・キルギス(英語ではセント・ジョージ)に出かけることにした。コプト教とは、エジプトのキリスト教のことである。AD42年、イエス・キリストの弟子であるマルコが直接布教した教えで、それ以来ずっとこの地で信仰されてきた。カトリックでもなく、プロテスタントでもない、言わば原始キリスト教なのである。 我々は、どこかでキリスト教はヨーロッパの宗教で、イエス・キリストはヨーロッパ人であると思ってしまっている。実際に彼が生涯をかけて布教したのはエジプトとイスラエルで、彼の言語はヘブライ語であり、彼自身は中東のユダヤ教徒であったのだ。 そしてこれも驚くべき事実であるが、ローマ帝国は地中海の周りのアフリカをも治めておりエジプトもローマ帝国であった。ローマのコロッセオでの剣奴の戦いに猛獣が登場していたのはそのためである。キリスト教はローマ帝国を通して中東からヨーロッパに伝わったのだ。 ローマ帝国が、それまで迫害してきたキリスト教を一転して正教にしたのはAD400年、従ってこのエジプトもその頃はキリスト教国であった。が、6世紀にムハンマドが神から啓示を受け、以後「右手に剣、左手にコーラン」とイスラム教が布教されイスラム教国家になる。 そこで十字軍なのだ。聖地奪回とは、もともとキリスト教国であったエジプトをイスラム教徒から奪いとるためであったのだ。だから、フランス王ルイ9世率いる第七回十字軍は、プロヴァンスから船でこのエジプトにやって来たのだ。そして、南仏からやってきた十字軍が暑さと病気で倒れて、カイロまでたどり着かなかった史実を、今私はこの暑さで水を飲みながら肌で感じた。 十字軍遠征は失敗に終わり、エジプトはイスラム教国となる。人口の10%のコプト教徒は、ここで迫害を受けながら1400年も間暮らしてきた。私のファンのペンシルヴァニアのアメリカ人が、近所に少年時代にエジプトから逃げてきたという医師の男性を紹介してくれた。彼はキリスト教の信仰が理由で、家族で迫害を逃れて着の身着のままでアメリカに移住したそうだ。その迫害の凄まじさは言葉にはできないし、言葉にするとさらなる迫害を受けるので、ずっと沈黙を辛い抜いて耐えてきたそうだ。 教会のすぐ外には機関銃を持った兵士が駐屯している。教会の前には違うユニフォームで機関銃を持った男性が歩く。ひょっとしたらここがイスラム教とキリスト教の宗教戦争の最前線なのか。壁には手と手を取り合ったレリーフがいたるところにかかっていた。イスラム教徒との和合の願いなのであろう。 私が着いたのは夕刻で、駅からも見える丸い聖堂が綺麗に黄昏の陽を反射している。この建物が丸いのは昔のローマの砦の跡に建てから出そうだ。中に入ろうとしたら、もう終わりだと言う。残念そうなな顔をしていたら、どう言うわけか入れてくれた。この国は、受付の人の気分で簡単に営業時間を変えてくれる(笑)。 一歩入るとそこには、大浦天主堂のような立派な聖堂がある。マリア様やら騎士団の絵が掲げてある。このイスラムの国において、それは非常に不思議に思える。私はクリスチャンではないが、見慣れた風景にホッとする。聖堂の中には、長いヒゲを蓄えた、ロマノフ王朝の怪僧ラスプーチンのような面持ちの歴代の伝道師の写真が並ぶ。 そうしたら、同じ面持ちの人が出てきて、写真を撮っても良いと言う。中に入って教会の写真を撮らせてもらった。ゆっくりと観終わると、司祭さんが戸締りをした。私のことを待っていてくれたのだ。感激である。彼が私服に着替えて退場するのを観ながら、丸い聖堂の向こうに行ってみた。なんとそこには細い路地があり、恐々入ってみると、パリのセーヌ川沿いのようなスタンドにキリスト関連の書が並ぶ。さらには、崩れかけた建物が続き奥には墓地があった。一つ一つに十字架か掲げらるている。夕暮れが迫る空には、大聖堂の十字架が空にシルエットを作る。 さらに進むと、大きな教会があり、なんとそこでアラビア語(だと思う)のミサが行われていた。しばらく外から見ていると、顔を隠していない女の子が一人退屈そうに出てきて、私に噛み付く代わりに(笑)近くで行われている家族のささやかな宴に合流した。 私は今日、このイスラムの国に1400年間迫害に耐えながら暮らしている原始キリスト教の教徒たちを見た。 (続く) |
第7話 8月4日 その3 アラビアン・ナイト |
昼間ピラミッドを見学し、夕刻にコプト教寺院で原始キリスト教に感動、しかし今日はまだまだ終わらない。これは気温が高いからだと思うが、エジプト人が街に繰り出すのは陽が沈んでからである。コプト教寺院は確かにオタクな観光スポットであるが、今から行くオールド・カイロは誰しもが観なくてはならない、1000年以上の歴史をそのままに残すカイロの心臓部なのだ。 しかも現地の友人、モハメッドが案内してくれるという。モハメッドの啓示通り(笑)、Al Shohadaaと言う駅で待ち合わせ。めでたく三人が揃ってさらに電車に乗ってオールド・カイロへ。 実は二日前に同じく夜に来てウンザリしたあの街である。秋葉原を人口密度を4倍にして、面積を4倍にしたようなところである。人が多くてまっすぐ歩くだけでも大変だ。駅を降りると直ぐに羊を大量に売っていた。急いでカメラを出して撮ろうとしたら止められた。「悲しいことだが」とモハメッドが「今週のお祭りでみんな屠殺されてしまう」と言う。各家庭でその日まで傷をつけないように大切に飼っておいて、お祭りの日に家長が風呂場で解体するそうだ。ユダヤ教も羊を犠牲にする。イスラム教とユダヤ教徒の原点をここに見る。 広い通りをかなり歩いてから、路地に入った。1000年間変わる事の無いオールド・カイロの街である。確かに建物が古い。廃屋になっている建物が多いが、その建築様式は今まで観てきた西洋諸国と全く違うエキゾチックなデザインだ。 モハメッドはかつてはゲームのプログラミングをしていたそうだが、今は観光ビジネスを自分で起業しようとしているとのこと。背がスラッと高い上に非常にハンサムで、映画で見たようなアラビア人である。しかも非常に誠実で真面目で真剣に建物や歴史を説明してくれる。 しばらく歩くと大きな石の城壁が見える。昔の砦と回教寺院だそうだ。見上げるほどの高い壁の前で、現地の若い女性がベールをしたままアクセサリーを付けてポーズを取っていた。やはりそうだ!若い女性は宗教、文化、国籍に関係無く綺麗でいたいと思うはずだ!その横では、少年たちがサッカーをしている。エジプトにもチームがある。 モハメッドが回教寺院に入ろうと言ってくれた。そいつは嬉しい。寺院に入る時は全員靴を脱がなくてはならない。裸足で暖かい石の上を歩く。ところどころには赤い絨毯が敷いてある。中央は回廊に囲まれた大きな四角い広場になっていて屋根がない。天の神と直接対話するためだそうだ。広場には一つ手洗い場があり水が出る。手を清めるためだ。端には木でできた扉付きの階段があり、司祭がその上で演説をするのだそうだ。無数のランターンが吊るしてある。非常に神聖な場所であることは容易にわかる。しかし、この広場に座る人が全員靴を脱いだら帰りに自分の靴が見つけられないのではとどうでも良い心配をしてしまった(笑)。 旅はさらに続く。所々にはカフェもあるが、どうも様子が違う。まず、男性ばかりで女性がいない。水タバコを吸っている人が多い。この光景はかなりエキゾチックである。 イスラム教の世界では昔から女性は男性に見られることが御法度である。その風習は今も色濃く残っている。女性がそっと街の様子を見るために作られた専用の出窓と専用ののぞき窓が今も残っている。裕福な家だけだろうが。 クラフト店もある。金と銀の二種類の金属を混ぜ合わせた皿に、手で複雑な模様を掘っていた。それが実に手練れていて思わず見入ってしまう。 さらに進むと今度は別の目玉、スルタンの墓所と城がある。なんとここは私がフランスから追いかけているルイ9世率いる第7回十字軍をモンサールの戦いで破ったスルタンのものだと言う。戦いの途中で死んでしまうが、元奴隷の妃がそれを隠して十字軍に大敗をもたらしたそうだ。地中海を挟んで歴史が繋がった。 彼の説明は続く。喜望峰を発見したバスコ・ダ・ガマに端を発したポルトガルとの戦争、征服者ではあるが、エジプトを世界に紹介する役割を果たして本当は感謝しているナポレオン(ロゼッタストーンのことだな)などなど。 普通なら、この辺でカフェにでも入って一服するものだが、彼は違っていた。なんと彼は昔砂漠の部隊にいたそうで、10日間飲まず食わずで歩き続けることができるそうだ。でも私も相棒も砂漠部隊のトレーニングを受けているわけではない。ちなみに、後どれくらいあるか聞いたら、まだ半分も見ていないとの事(笑)。夜11時を過ぎている。流石に帰ることにした。それにしても深夜にこの人出とこの喧騒、同じ頃に近くで爆破テロが起きて20人が死んだことなど知る由もなかった。 (続く) |
第8話 8月5日 大徳寺の生臭和尚 |
朝起きるとエジプト人のアシスタント、ザリカさんが来ていた。開口一番「昨夜は大丈夫だった?街で車が炎上して19人死んだのよ。」と教えてくれた。しばらくしてそれはテロであることが判明、ジャーナリストの方によれば間違いなくムスリム同胞団の仕業だそうだ。 エジプト六日目。時差ボケが治ってきて、身体がこの気温に馴染んできた。洗濯物も溜まったので、洗濯機をお借りした。外で干したら直ぐ乾くとの事。随分と埃っぽくなることを覚悟して外に干した。この強い太陽、確かに気持ちが良い。 昼は、お二人がカイロの歓迎にコシャリという地元の料理を食べに近くのレストランに連れて行ってくれることになった。ありがたい! 例のスラム街(失礼)を抜けて、Abdo Aseemという新しく綺麗な店に入る。店内の壁には薄型テレビが設置されているが、そこではメッカの聖地巡礼の様子を低い読経とともに永遠に流している。 私は大盛りを食べろと言われたのでそうした。一滴で十分に辛いソースと酢をかけて食べたのは、細かく切って炒めた野菜にマカロニが混じった言わば丼料理で、味はかなり良い。マカロニのお陰で腹が膨れる。ザリカさんのおごりで、3人で40ポンド、2ドル40セントであった。 さて、ザリカさんも家に帰ってしまい、やることがないし、練習するにもピアノがない。そもそも明日のコンサートが遥かに遠い未来のような気がする。というので、昨日モハメッドが連れて行ってくれようとしていたカイロ最大のモスクと城塞を観に行くことにした。 壮大な景色のモスクと石の砦に着いた時には実は閉館時間間際で、Uberは入場を拒否された。歩いて行けばなんとかなると運転手に言われ、一か八か歩いてゲートに行ったら、昨日のように入れてくれた。「何事も自分で諦めてはいけない」という貴重な教訓を学んだ(笑)。 と言ってもそのうち閉められてしまうことには間違いない。かなり広い敷地なので、小走りで最初の見どころ、モスクを目指した。これは昨夜暗がりの中でモハメッドが案内してくれたモスクと殆ど一緒だ。明るい日差しの中で観るとディテールがよく見える。回廊、演説台、無数のランターン、裸足で歩く石の上。一人の司祭が数人の観光客に演説台のところで読経を披露してくれた。マイクなど使わずととも声が境内に響くように作られているようだ。彼の神秘的でエキゾティックな声が回廊に響いた。 閉館間際というので、客は少ない。彼は私の靴を下駄箱から出してくれた。感謝である。急いで次の所に行く。そこはムハンマド・アリーという19世紀に活躍した指導者のお墓があるモスクである。建物には入れてくれなかったが、天高くそびえる二本の塔と丸いドームは究極にエキゾチックである。その高台からカイロの街が一望できる。目の前にはモハメッドが言うエジプト最大のモスクが神秘的に建ち、周りには崩れかけたような建物が並ぶ。高速道路では車が渋滞している。焼けるような太陽光は、午後5時になろうとしても非常に強い。しばし眺めた。 さて、これで今日の目的は果たすことができた。夕方から思いついて出てきて、閉館間際に飛び込んだにしては上出来だ。帰り際に先ほどの司祭がいた。私の顔を見て「さっき靴を取ってあげたからチップをくれ」と言う。その瞬間先ほど声を聴かせてくれた感謝の気持ちが急に失せて、思わず「おい、金が欲しいんなら、こっちに金を払いたいと思わせろ!」と言ってやった。一昨日から、私は「ボッタクリに怯えるか弱い観光客」から「自分の意見をしっかり言える強者旅行者」になったのだ。顔には堂々と「この生臭和尚め」と書いてある(笑)。彼は「Welcome to Cairo」と一言残してすごすごと帰って行った。 「このモスクで多くのエジプトの人の心を救っていきたい。是非、献金してもらえないか」と言われれば喜んで差し出したと思う。が、聖職者の口から出た言葉が靴のチップ?ちなみに、ここはエジプト有数のモスクである。日本で言えば差し詰め、東大寺とか大徳寺である。 帰りのUberの車窓から見える風景がすごかった。来週屠殺される羊の群れ、ベールをかぶった女性たち、一台の原付のタクシーに群がる人たち、小さな子供と石油缶を積んだ馬車で高速道路を走る父親、火事の焼け跡が残る刑務所。 今日は一人で夕食であった。滞在先の目の前にSocial Bergerというハンバーガー屋がある。チキンバーガーな気分なので、メニューを見ると「Happy Chicken」と「Angery Chicken」がある。いささか”Angery”な気持ちだったので(笑)、皆がハッピーな気持ちになれることを祈ってHappy Chickenとフレンチフライを頼んだ。すぐに幸せになれた(笑)。 明日はカイロの老舗クラブでのコンサートである。この暑さと三日間のカルチャーショックで音楽が頭から溶けて流出してしまいそうだ(笑)。 (続く) |
第9話 8月7日 昼顔 |
エジプト八日目。最後のオフ。ナイロ・メーターとモナステリ宮殿に出かける。数日前に感動したコプト教寺院のあるマール・キルギス駅を教会とは反対のナイル川側に出る。そこはまたしても悲惨な街であった。最近では軍がトラックを出して肉を売っているそうで、多分それもそうであろう。街頭でいきなり豚を吊るして売っていた。私がカメラを持って歩いていると少年たちが野次を飛ばしてくる。中にはしつこく付いてくる者もいる。 何とか我慢してナイル川に出ると、今度はその通りを渡るのに一苦労。何せ、歩行者を見ても速度を緩めない車が、車線の全くない高速道路を思いっきり飛ばしている。が、苦労は報われる。頑張ってダッシュをして渡った先には、フランス製のおしゃれな歩道橋があり、歩いてナイルの中州に渡る。水辺には少年たちが水浴びをしている。 人に聞きながらやっと目的のナイロ・メーターに到着。最初はナイロ・メーターってナイル・メーターの間違いなんじゃないかって思ったが、純粋に水位計のことだそうだ。「人類に最初の貧富の差が最初に生まれたのは、ナイル川の氾濫を予想できた人が登場したことだった」と高校の世界史の先生が言っていた。4500年前には、もうピラミッドができていたわけであるから、それよりもさらに昔の話である。 このナイロ・メーターは18世紀の技術だそうで、エジプトが誇るエンジニアの銅像がある。これだけ大きな川だ、水位は人々の暮らしを守る上で大切な情報であったのだろう。軍事基地のような門から敷地内に入ると、おばさんが一人芝生の上でくつろいでいた。彼女からチケットを買う。そうすると何処からともなくおじさんが出てきて案内をすると言う。その手は食わぬ。ガイドしておいて後から金を取るつもりだな。と思ったら、どうやらナイロ・メーターの観光客は私一人で、彼は普段鍵をかけている施設を私のために開いて私が見終わるまで静かに待っていてくれる。一本の石の柱が地下に伸びているメーターを見終わって、次のモネステリ宮殿はどこかと聞くと、隣であった。そこも彼が案内してくれた。実際にフランスの宮殿を見てきた私にはミニチュアな真似事宮殿であるが、スタインウェイのピアノが置いてあり、砂漠の街カイロの重要な近代の文化施設になっているようだ。中州に立っているだけあって、四方が水のこの宮殿は涼しくて落ち着く小さなオアシスであった。 たっぷり一日遊べると思って出てきたのであるが、1時間足らずで見終わってしまった。明日の遠征に備えて今日はおとなしく家に帰ることにした。昨夜からひいきにしているSocial Burgerの前でザリカさんに会う。彼女はジャーナリストのボスを病院に連れて行くところで、ついでに私にバーガーをご馳走してくれた。「Angery Chicken」じゃない方(笑)Happy Chickenをいただいた。 二人とも病院に行ってしまったので、一人で寝ていたらいきなりクーラーが止まった。どんどん気温が上がる。どうやら停電のようだ。心細くなったところへ二人が帰ってきてくれた。暗くなると停電の規模がわかってくる。目の前の「ウガンダ大使館」は明かりが灯っているので、このブロックの中だけらしい。大使館?私には「スラム街」に見えるこの界隈は大使館街でもあった。日本で大使館があるところはどこだろう?港区?じゃあここはカイロの港区?ザリカさんが「目抜き通り」と言うわけだ。じゃぁ、何故に物乞いが溢れ、少女が噛みつき、瓦礫とゴミの山で野犬が寝ているの?カイロ在住20年のホストのジャーナリストは、野犬が怖くてジョッギングに出れないと区役所に文句を言ったそうだ。それでも時々毒を撒いて処分しているそうだ。 数時間で電気が戻った!嬉しいついでに今夜は私がお二人に夕食をご馳走させていただくことを提案したら大変喜んでくれた。どこかレストランにと思ったらお二人とも大変な1日だったようで、デリバリーを頼むことになった。ザリカさんが電話でオーダーをしてくれ、待っている間、彼女の好きなビデオを一緒に観ようと言うことになった。かなり上手い日本語を話す彼女の勉強方法は日本のビデオを観ることだそうだ。で、彼女のお気に入りの教材は「昼顔」であった。 NY暮らしであまり日本のドラマには馴染みのない私であるが、ストーリーくらいは聞いていた。ザリカさんは数日前に、イスラムの世界では不貞を働いた女性には大変厳しい刑が用意されていると言う恐ろしくてここには書けない話をしてくれたばかりである。それは旧約聖書のジョシュアにも登場し、最近その慣習の廃止を叫んだミス・ユニバースがいた。 その話をしてくれたイスラムの美女が、私に「昼顔」を観ようと誘ってくれている?大人しく彼女の横に座って上戸彩主演のドラマの第一回が始まった。しばらくしたら彼女が急にビデオを止めて私を見た。「フキンシンって何ですか?」「不謹慎?えーっとそれは…」昼顔は純粋に彼女の日本語の教材なのであった(笑)。 ちょうどクライマックスを迎えるところで料理が届いた。エジプト版ローストチキンであった。米の上にローストチキンがこんがり焼けていて、それはそれは美味しい。エジプトは料理が美味しい!ただ注文方法がわからないだけだ。ザリカさんは、もう少ししたら、鳩を食べさせてくれると言う。そう言う彼女は、毎日ベランダで鳩の餌付けをしている。まさか。 食べ終わったらみんなすぐにベッドに入ってしまった。私は遠征の荷造りをする。明日は海岸の街アレクサンドリアでエジプトツアー最後のコンサートだ。 (続く) |
第10話 8月8日 地中海へ |
朝5時半に目覚ましが鳴って急いで起きる。今日はエジプト九日目、最後のコンサート、明日はNYに戻る。が、最後のコンサートはここから電車で三時間の地中海沿いの街、アレクサンドリアである。地元の人はここをアレックスと呼ぶ。コンサートは夜の7時なのであるが、列車の予約がいっぱいで、ヤミ市で辛うじて手に入れたチケットは早朝の列車しかなかったそうだ。 7時に相棒とラムゼス駅で待ち合わせ。ラムゼス?ラムゼスとは古代エジプトの精力絶倫だった王で、長生きをしたために50人の息子たちのお墓を作ったそうだ。アメリカでは避妊具の名前に使われており、昔ジェイ・レノがネタにしていた。 地下鉄で駅に向かう。眠いのでぼーっとして乗り越してしまったが、なんとか戻って、例のごとく強烈に歩きづらい道を人混みと絶対に譲らない車を掻い潜って、隣にあるモスクの大きさに感動して写真を取りながらもギリギリで待ち合わせ場所に到着。 さて、駅にはホームが4本しか無いものの、エジプト6回目の百戦錬磨の相棒にも我々のホームを見つけるのは大変であった。でも面白い。困っていると必ず人が助けてくれる。この朝は、軍服を着た若い男性たちがホームを教えてくれ、それが間違っていたと言ってわざわざ後から修正に来てくれた。ホームでも待っている年配の男性が教えてくれる。しかも私たちにベンチを譲ってくれようとする。 エジプトの人は非常に親切でお互いを助ける国民らしい。では、あのぼったくりや物乞い、平気で嘘をつく商人はなんなんだろう。お金が絡むと人が変わるのか。 ホームで待っていると凄い光景が目に入ってくる。車両はボロボロ、窓は傾いて開けっ放し、しかもドアが最初から無くて、人々はまだ動いている電車に乗り降りする。線路の上を思い荷物を持った人達が移動する。これには驚いた。 私たちが乗る電車もそうなのかと心配していると、流石に長距離だけあって新幹線のようなまともな列車が入ってきた。ちゃんとドアもある。が、この電車、車で走れば2時間の距離を3時間かけて走る。私は勝手に「超低速鉄道」と名付けた。 エジプトは地図で見ると分かるが、カイロから北は緑のナイルデルタである。カイロを出てしばらくすると砂漠の砂の色が緑になり畑が続く。畑のあぜ道を農夫がロバに乗って移動している。どんな小さな集落にもモスクがあり、天辺に月のマークを掲げた塔にはお祈りを放送するためのメガホンが付いている。モスクの色は緑と決まっているらしい。 3時間後、「超低速鉄道」はアレクサンドリアに着いた。駅を出た瞬間カイロとは全く違うエジプトがあった。海からの爽やかな風を感じる。街が綺麗で人々が開放的なのだ。なんだか嬉しくなってきた。GPSで会場を探すと、Jesuit Cultural Centerと言うキリスト教の施設は徒歩で10分だ。敷地内では華やかな女子学生と猫が広場で楽しく集う。この街はイギリスの植民地であったはずで、その為か顔立ちが西洋的な女性が混ざる。ここはみんなが楽しそうなのだ。控え室に案内され、荷物を置いた。夕方4時のサウンドチェックまでかなり時間がある。ランチじゃ! 相棒と海まで歩く。荒々しいが綺麗な海辺に出た。これが地中海だ。この海の対岸が二週間前まで過ごしていたヨーロッパである。ルイ9世率いる第7回十字軍が南仏から出航し、このエジプトに上陸した。この夏、私は地中海をヨーロッパとアフリカ両側から眺めたのだ。 お腹が空いていたので、海沿いのレストランに入る。メニューを見るとシーフードが美味しそうだ。早速、魚介類フライの詰め合わせ定食を注文。美味い!アレクサンドリア最高! これだけの海辺、西洋であれば一大ビーチリゾートになるはずであるが、ここは海に入る人がいない。相棒は水着は持ってきてはいるが、ここでビキニを着てビーチに出ると大変なことになると言う。ふん、二週間前までいたコート・ダジュールではビキニどころかトップレスの女性がたくさんいた。女性がビーチに来て、さっとトップを外す。そういう女性から話しかけられて会話をしながら相手のどこに視線を持って行ったら良いか迷ったことがある(笑)。地中海の対岸で、女性の肌の露出度が全然違う。おかしいなぁ。かつては同じローマ帝国であったのに、どこで変わっちゃったんだろう(笑)。 集合までまだ時間があるので、折角来たアレクサンドリアの観光をしない訳にはいかない。相棒と二人でUberを使って、砦とローマの劇場跡に行く。プロヴァンスのオランジュと規模は違うがほぼ同じローマの野外劇場跡がある。このエジプトがイタリアやフランスと同じローマ帝国であったと言うことは今更ながら驚愕する。ここからライオンやら何やらアフリカの珍しい動物がローマのコロセウムに届けられたのだ。 ただ、オランジュは世界中から人が集まる華やかな観光地であるが、ここは夏というのに人が殆どいない。そして「写真撮ったら撮影料いただきますよ」と言うおばさんが中からじっと私を監視している。あの、まだ入場券買ってもいないんですけど(笑)。入る気を無くしたのは言うまでもない。資本主義ではこれを「販売機会の損失」と言う(笑)。 夕方に会場に戻る。そこで驚きがあった。今夜の会場は、あのウッディー・アレンの映画「カイロの紫のバラ」の撮影に使われたイタリアン・シアターである。映画のスクリーンから主人公が飛び出てくるあのシーンを今も強烈に覚えている。神様ありがとう! (続く) |
第11話 8月8日/9日 「出エジプト記」 |
エジプト最後の日は、カイロから三時間電車に乗ってやってきた地中海沿いの街、アレクサンドリアでコンサートをする。アレクサンドリアは紀元前300年にアレクサンドロス大王がエジプトのファラオになって作った街で、後にそれはヘレニズム文明の中心地となり、またキリスト教の五本山として名を馳せた。ローマと並ぶキリスト教の本山?回教徒の国エジプトにあってそれは嘘言にように思えるが、そうだったのだ。私たちが演奏する場所は、JeSuite教会、フランシスコザビエルも所属したイエズス会である。コンサート会場は、その施設の中にある歴史的なホール、なんとウッディー・アレンの映画「カイロの紫のバラ」の撮影に使われたイタリアン・シアターである。ブルットナーのピアノであった。これはビートルズがレットイットビーで使ったピアノだ。早速主催者の人にレットイットビーを披露したら喜んでもらえた。 近年の革命で軍事政権が誕生し人々の政府への希望を奪ってしまう前までは、実はカイロは作曲家を多く輩出する芸術の華やかなる街であったらしい。確かに、このシアターを見るとその片鱗に触れたように思う。サウンドマンが、このシアターに隣接してレコーディング・スタジオを作っている様子を私に見せてくれた。素晴らしい!応援したい。 コンサート会場は一杯の人が来てくれた。演奏は楽しかった。終わってから、沢山の人が来てくれて話をした。 お客さん、主催者の方々、それにアレクサンドリアの街が非常に好意的で嬉しかった。これほどまで良い街であればもう少し長居したいところだが、9時半の電車でカイロに帰らなければならない。速攻で駅に向かう途中、海外青年協力隊で来ている日本人と非常に上手に日本語を喋るエジプト人の二人の若者と友達になり、電車の時間ギリギリまでジュース・スタンドの前で立ち宴会になった。そこで奢っていただいた大ジョッキ一杯のマンゴージュースが美味しくて、NYでも演奏が終わるとマンゴージュースが飲みたくなるように脳が学習してしまった。 まだまだ遊んでいたいが、明日の朝空港に行きNYに帰らねばならない。残念だが、さよならを言ってホームに向かう。排気ガスが充満した暗いホームで、始発なのに30分遅れる電車を待った。ということは地下鉄では帰れないということか。電車がさらに遅れてカイロの到着は午前1時半を回っていた。再び悪夢のようなカイロの雑踏の中に出て、頑張ってUberを拾う。こんな時間に街が大混雑しているのは犠牲祭が近いからであろう。車のラジオから流れる低いコーランの読経を聞きながら午前2時過ぎに家に到着。 あれだけ辛い思いをしたカイロ滞在だが、帰るとなると少し寂しい。実は本当のエジプトの魅力はまだ見ていないと指摘されていた。モーセが煙の中で啓示を受けたシナイ山の魅力、ダハブの海の美しさ、砂漠に面する海は水が純粋でそこにはサンゴ礁があり熱帯魚がいるそうだ。スエズの海、シナイ半島の魚は美味しく、2時間かけて買い出しに行くそうである。今回は温度が50度以上になるので行かないことにしたが、王家の谷があるルクソールもいつか行きたいと思う。それに加えて、今回出会った政府関係の日本人の方、エジプトの為に働く素晴らしい人たちであった。何かの形で私も応援させていただきたいと思う。そして、アレクサンドリアの海風とマンゴージュース。 同時に今まで考えもしなかった事を沢山学んだ。エジプトの直前に私は南仏でマグダラのマリアを追いかけた。イエス・キリストには妻がいて処刑を免れて南仏のカマルグに船で渡り、その子孫の血がメルビンぐ王朝に流れているという仮説がある。映画「ダヴィンチ・コード」の背景である。それを教外の為に隠したというカトリックの陰謀がテーマだけに、映画には一部のカトリック信者たちが抗議をしたとは聞いているが、それで誰かが死んだわけでは無い。むしろショービジネスに貢献し経済効果をもたらした。その言動の自由と宗教から独立した経済活動の自由、それがアメリカやG7諸国にはある。そこに、6世紀に書かれたコーランにいかなる現代的な解釈を禁じている宗教との差が国の発展という大きな格差をもたらしたのでは無いかと私は感じた。(因みに現在のエジプトのGDP per Capitaは日本の6%である。) アレクサンドリアとカイロの途中にマンスーラという街がある。そこは第7回十字軍が大敗を喫した場所である。エジプトではその時のスルタン、サーリフと彼の死を隠して裏で戦い続けた妻シャジャルがヒーローである。奇しくも私がカイロで夜遊びをしている間にテロが起こった。私はテロの根源は創成期にさかのぼり、十字軍のツケは今だにあると思う。ユダヤ教とイスラム教とキリスト教は全て同じ聖地を持つ兄弟なのだ。そこに歴史と圧倒的な経済格差が合間ってジハードが起こるのだ。強烈な人間の性を感じる。 帰国の荷造りをしてシャワーを浴びると出発まで1時間になっていた。僅かの仮眠でUberを拾い空港に向かう。途中の朝焼けが、ビビの入ったフロントガラスに眩しく映った。エジプトがさよならを言ってくれているように思えた。 シナイ山で啓示を受けたモーセは割れた海を渡って民をエジプトから脱出させた。旧約聖書の「出エジプト記(Exodus)」である。この強行軍の末にエジプトを出られる安堵感と、少しづつ育ってきたエジプトへの愛着が混じる不思議な感覚があった。それが私の「出エジプト記」であった。 (終わり) |
Camera: Canon RP, SL2 & iPhone X
|