Jazz Pianist
Encore Provence 2019
Texts and Photos by Takeshi Asai
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第1話 7月14日/15日 「アンコール・プロヴァンス」 |
開け放ったキッチンの窓からは緑の山に白い岩肌と赤茶けた煉瓦の白い石の建物が見える。まばゆい太陽光なのに心地よい風がそよぎ、遠くに蝉の鳴き声が聞こえる。南仏プロヴァンスの夏だ。 私は旅が好きで、常に新しい場所へ出かけていくのだが、何度でも出かけたくなる同じ場所もある。南仏プロヴァンスだ。 プロヴァンスと最初に出会ったのは、東京で会社勤めをしている時だったと思う。当時六本木のお洒落な仏レストランに行けば、○○○プロヴァンス風という料理を目にした。ボストン留学時代には英国人作家ピーター・メイルの「プロヴァンスの12ヶ月」という本を読んで、いつか自分もプロヴァンスに行き、咲き誇るラベンダーの写真を撮ることが夢の一つとなった。 私には厄年があり、やることなすこと全て上手くいかない大変な時期があった。それが極限に達した年の瀬に、厄払いを願って私たち夫婦はクレジットカードのマイレージを貯めてこのプロヴァンスにやってきた。それは冬であったが、美味しいワイン、奇跡的なトリュフ、ニースの美しい夕陽、十字軍の砦、人生を変えてしまう素晴らしい旅となった。それ以来、私たちは毎年にようにこの地を訪れるようになった。と言っても、最近は演奏のツアーでフランスに来ながらプロヴァンスでゆっくりできなかったので、今年はゆったりと二週間、文字通りバカンスを決め込むことにした。 ピーターメイルは、本のおかげであまりのもたくさんの人が押し寄せるようになってしまったので、しばしNYのロングアイランドに逃げていたそうだ。が、プロヴァンスの生活が恋しくてまたやってきた。そして著した本が「アンコール・プロヴァンス」。 7月14日日曜日、昨夜のクラブ演奏で疲れていてまだ眠りこけたいところを起きて荷造り。なぜにいつも出発当日の荷造りとなってしまうのだろう。最近はIoTとやらで、世界中どこからでも玄関に対応できるドアベル、常時家と庭を監視できるカメラシステム、毎日畑に水を撒いてくれる家庭用灌漑システムなど、荷造りよりも家のセキュリティーシステムのセットアップに時間がかかった。 UberでJFKに向かい、定刻のフライトで8時間の末に、お馴染みのニース国際空港に到着。途中機内から見えるアルプスが美しかったが、着いてみると雨。初めて雨のニースを見た。 例の如くほとんで寝ていないのでかなり眠たいのだが、レンタカーをピックする。若くてとてもフランス的で素敵な女性が親切に対応してくれる。予約したFiat 500が小さすぎるので、Pougeot 208を選んだら非常に喜んでくれた。本当はVWが理想なのだが、彼女の可愛い顔から湧き出るフランス愛に絆された(笑)。フランス人はドイツ車嫌いだ。 雨の中、高速道路を3時間ドライブ。徹夜明けでフランスに着いて、いきなりこの移動はきついが、全体の工程を考えると仕方ない。アビニヨンを通過する頃には南仏の太陽が戻ってきた。夕陽の中、目的地ウゼ(Uzés)に到着。レントしたアパートの主人が迎えてくれて、親切に説明をしてくれた。おしゃれな歴史の香る建物の三階のフロアを全部貸してくれた。ベッドルームが二つ、キッチン、トイレ、バスルーム、リビングルーム、ダイニングルーム、迷子になるかと思うこの広さにアーティスティックなデコの並ぶ宮殿の様なフロアである。中世の石の街に、このアパート、破格の待遇である。 そして、窓からは石造りの中世の町並み、反対の窓からは、瓦屋根越しに時より岩肌を見せるプロヴァンスの山が見える。風が通り抜けると本当に気持ちが良い。カレンダー上では二日間であるが、体には長い1日で、今朝NYを出発してその日の夕刻にプロヴァンスに着いたのは奇跡のように思える。 早速薬局で、今回忘れてしまった歯ブラシ、スーパーで野菜と果物と水を買い、近くの安食堂でバーガーを食べる。店のおばさんがとても優しい。英語はゼロであるが、下手なフランス語のコミュニケーションが楽しい。 午後10時を回るというのにかなり明るいので、街を散策する。道が狭く、階段と小道でできた白い中世の石の街には、立派な教会と絵になる城が見える。明日来よう。 こうして二週間のプロヴァンス生活が始まった。豪華なアパートに着いてベットに横たわったらそのまま寝てしまった。 (続く) |
第2話 7月16日 「バベットの晩餐」 |
やはり時差ボケだ。夜中に起きて二度寝、結局朝寝坊をしてしまう。が、バケーションに来ているのだ。何を急ぐことがあろう。 昼過ぎにこの中世の街Uzés(ウゼ)の真ん中にそびえる城に出かける。ここは古くはローマ時代から栄えた山と川に囲まれた風光明媚な街なのだ。紀元前1世紀にはすでにローマの水道が作られていた。近くにpont du gardという世界遺産にも登録された有名な水道橋があるが、その上流の当たるのがこの街である。 当然のことながら、そういうところは奪い合いになる。ウゼは8世紀にはアラブのウマイヤ朝に占領され、アラブの最北端に位置した。かつてエジプトがローマ帝国でキリスト教国であったことは驚きだが、南仏がイスラム教国家?これはさらなる驚きである。それをレコンキスタでキリスト教軍が奪回したことは周知の事実である。 フランスには大きく分けて二つの地域がある。一つはYesをOuiと言うパリを中心とする地域、もう一つはYesをOcと言う南仏である。言葉の名前が地名になり、ここをLangued’oc、ラングドック地方という。それはOccitaneとも呼ばれ、世界的に有名なフランスのブランドL'Occitane en Provenceはここの文化を商品化している。 ウゼは長い間キリスト教ビショップが治める街として繁栄した。が、パリのルイ8世が併合を企て、13世紀にルイ9世(私の研究テーマ)との間で和解が成立。1229年に公爵(Duke)が置かれ、それ以来800年間、この城はDuché d’Uzèsと呼ばれ、同じ家の末裔が今も住んでいるという。現在の城主様に是非会ってみたいものだ(笑)。 素晴らしい円形の城下町には中世の石の建物がそのまま残る。城が見えた!眩しいプロヴァンスの太陽に石の建物とロゴ入りの屋根が映える。早速入場。城のゲストではないので(笑)、チケットを買う。フランスの田舎の城は、大抵フランス語のツアーでしか中に入れない。そこに庭だけ観たい人、翻訳が欲しい人など、ややこしくなる。英語では中々通じないので、伝家の宝刀フランス語で頑張った。そうしたら、後ろにインディアナから来たというアメリカ人夫婦がいて、通訳をしてくれと言う。日本語も少しできる彼らとは共通点も多く会話が楽しかった。 フランスの城は大抵そうだが、中世の古い部分と近代の豪華な宮殿が共存する。古い鎧の兜があり、ご先祖様のバストや肖像画がたくさん並べられている中に何と今の城主の家族の写真もある(笑)。近代の部分には教会があり、光輝いていた。そして屋上から見た景色の素晴らしいこと。石の建物と屋根が緑の森の中に円形の中世の街を形づける。この景色は13世紀から変わっていないはずである。 最後にアクシデントがあった。中世の城には大抵地下に牢獄がある。入り口が一つしかなく一回入ったら出られない。恐ろしくも囚人はそこで忘れられてしまうというので、城の牢獄をOublié(忘れた)と言う。ゴーストが出ると言う噂があるそのウブリエを覗いていたら、サングラスを落としてしまった。幸い深くはないので、下の方に落ちているのが見える。一瞬、自分で取りに行こうかと思ったが、それは危険だ。それに忘れられたら大変だ(笑)。サングラスを諦める?それは城にとっても良くない。で、夫婦でさっきの受付のお兄さんにお願いに行った。たった一人で切り盛りしているお兄さんは、入口を閉鎖して、石が風化していて危ない中、頭をぶつけながらサングラスを拾ってくれた。なんて素晴らしい人だ。名前を聞いたらトニーだと言う。深々と感謝した。 城を出ると門前に露店が準備をしている。どうやら今夜はお祭りのようだ。なんてラッキーなんだ。街の広場でアイスクリームと飲み物で休憩。それもフランスならではの非常に格調の高いスウィートだ。NYでプロデュースを手掛けている女性シンガーのデビューコンサートが決まったと知らせが入った!アイスクリームがもっと甘くなった!すっかりスウィートになって一先ずアパートまで帰る。徒歩10分だ。 本来はアパートで自炊をするのが常なのだが、今夜はお祭りもあるし、初日から掟を破って外食をすることにした。夕方は冷えるのでそれなりの服に着替えて、昼間たっぷり楽しんだ城の前に戻る。 出店を見て回る。トリュフ屋がある。これだけ頻繁に南仏に来ながら今まで知らなかったが、トリュフには黒トリュフと白トリュフがある。お馴染みの黒トリュフは南仏産で1キロ800ドルで取引され、白トリュフはイタリア産で1キロ2000ドルだそうだ。純粋のトリュフは高いので、トリュフのクリームを買う。特別なディナーで出そう。 で、目星を付けておいたレストランへ。フランスでは夏の夜は外で食事をするのが普通である。星空の下、薄暗いキャンドルのテーブルにつく。英語を喋るのは失礼になるくらい超フランスの夜である。ウェイトレスの女性が超優しい。料理は、前菜にピーマンのシーチキン詰、メインにプロヴァンスのチキン、プロヴァンスのエビ、北アフリカ料理のクスクス、美味しいパン、表面が硬いので割って食べるクリームブリュレ、ティラミス、このクオリティの高さは何だ!決して高級レストランではないが、長い間に培われてきた食文化がここにある。やはりフランスは世界で押しも押されぬ文化大国だ! 映画「バベットの晩餐」の如く、すっかり料理で幸せになって、星空の下中世の石畳を歩いていると、城の前の市役所でタンゴ大会があって、街のおじさん、おばさんが着飾って楽しく踊っている。どこかダサくてパリの洗練さは全くないが、集う人たちの楽しさはどうだ!こちらが感動してしまう。しばらく見入ってしまった。 その感動を胸にアパートに戻る。プロヴァンスの初日は、今までの辛いことを全て帳消しにしてお釣りを沢山くれる幸せな1日であった。 (続く) |
第3話 7月17日 城主様 |
今日は、バルセロナ方面に3時間ドライブする予定であったが、時差ぼけで10時半まで寝てしまったので、急遽プログラムを入れ替え、Uzesの街を散策することにした。 アパートの朝の景色と風の心地よさはたまらない。今日日、世界中どこにいてもネットで繋がるので、いい気になって仕事をしていたらお腹が減ってきた。昼だ。昨日スーパーで買っておいたパスタを茹で、ズッキーニとトマトとロゼワインでソースを作り、勝手にプロヴァンス風と名付けたパスタを食べた。美味しい。ロゼはここの名産で、夏のこの気候によく合う。 昼に出かける。昨日時間切れで行けなかった、Jardin Medieval (中世の庭)に出かける。優しいおばさんが出迎えてくれ、親切なフランス語で対応してくれた。入り口には少々素人っぽいが私が読んだ本の表紙と同じ作風の中世の壁画がある。園内にそこに描かれている猫と同じ猫がいた。早速おばさんに聞いてみると、本来の絵は犬であったが、そこで20年生きているトラ猫に敬意を表して、犬を描に代えたそうだ。当の本人は私たちが噂をしているにかかわらず、箱に収まって微動だにせず眠りこけていた。 高い古い石の塔の脇に小さいが趣のある庭がある。ここには中世の宮廷で育てていた400種ほどのハーブを学術的に研究しそのまま再現してあるそうだ。医学が発達していなかった中世ではハーブは医学的に重要であったはずだ。渡されたブックレットには五ヶ国語で植物の名前が列記してあった。中には即売している植物もある。飛行機でなければ、買って家の庭に植えたいものだ。プロヴァンスの太陽は強烈である。枯れているものもいくつかあり、その手の届かなさに感動した(笑)。 庭を見た後、中世のタワーに登る。入り口にはカウンターが設置してあって、一度に20人以上は入れないそうだ。途中で崩れるおそれがあるということか。典型的な狭い螺旋階段を登ると頂上からは街が見渡せる。石では高い建物が作れなかった中世に、これは権威の象徴であっただろう。今でも、街のどこからでも白い石の建物の間から荘厳に見え隠れする。頂上から見える景色は絶景であった。そもそも街自体が丘の上に建っているため、赤茶けた瓦の向こうに緑の山がよく見える。これなら、敵が攻めてきても事前にわかる。 2本目の塔は、1493年に国王シャルル8世のために作られたものだが、いつしか牢獄となり、なんと20世紀まで牢獄として使われていたそうだ。壁には囚人たちが残した落書きが生々しい。ほとんどが、キリストの十字架かイエスで、中には斧を持った人物が描かれている。死刑執行人なのだろうか。痛々しい。塔から降りてくるとカウンターがマイナス1人になっている。どういう事?(笑) 二つの塔を制覇してまた小さな庭に降りてくると、優しいおばさんが、ここで採れたレモングラス入りの美味しいティーを出してくれた。この手作り感、800年も建っているこの塔、ユーモアがあって優しいおばさん、眠りこける猫、ここにいると心が洗われた。どう言うわけか急にいい人になってしまって(笑)、昨夜ウブリエに落としたサングラスを拾ってくれたトニーにお礼がしたくなり、近くの酒屋で、よく冷えたここの名物ロゼを一本買って、隣の宮殿に持って行く事にした。その前に酒屋の隣のベーカリーでフレンチ・ドーナツとアプリコット・パイで腹ごしらえだ。 城に行ったら、今日は様子が違っていた。人が殆どいない代わりに正門に黒塗りの車が止まって、中から品の良い夫婦が降りてきていた。とりあえずトニー探していたら、その品の良い男性が、優しい英語で話しかけてくれた。昨日、サングラスを拾ってくれたトニーにお礼をしたいと言うと、彼が言付けてくれるとワインを受け取ってくれた。名刺を渡してお礼を言ってた立ち去ろうとした時に合点がいった。この夫婦、この城の今の城主様なのだ。1565年に、フランス国王シャルル8世から爵位を賜ったこのUzesの領主は、貴族として列せられ、それ以来同じ家族がここに住んでいるのだ。 そういえば、昨日ルイ15世王妃など蒼々たる先祖のポートレイトに混じって今の家族の写真が飾ってあった。そうだ、その奥さんと旦那さんだ。二人とも写真よりはちょっと歳をお召しになり、ちょっと恰幅が良くなっているが、あの品の高さは並大抵ではない。Tシャツ短パンの汗だくな旅行者の私たち自ら言葉をかけてくれる。私たち夫婦もあの貴族のお二人のような気品を出そうと話しあった(笑)。 感動を胸にアパートに戻る。ここに来てまだ二日目なのに何故か洗濯がしたい。家主が非常に複雑なフランスの洗濯機の使い方を教えてくれた。洗うだけで1時間40分。フランスは洗濯機が非常にややこしい。何故? 自炊をして洗濯物を外に干して、夜の街に出て、美味しいドリンクを飲む。夜のライトアップした城が美しい。今頃、城の中であのご夫婦は何をされているのだろう(笑)。 明日はダヴィンチ・コードの謎を求めてレンヌ・ル・シャトーに遠出。楽しみだ。 (続く) |
第4話 7月18日 ダ・ヴィンチ・コードの謎を求めてレンヌ・ル・シャトーへ |
今日は朝から遠出。レンヌ・ル・シャトーに行く。実はこのプロヴァンス旅行の目的の一つにこの小旅行があった。中世最大の都市カルカソンヌの近くに実に不思議な謎が残っているのだ。 私がこの話に興味を持ったのは「ダヴィンチ・コード」を観てからである。映画の背景は、イエス・キリストには妻がいて、実は処刑を免れて生きていた。そして二人には子供もいて今も子孫がいる。一説によるとその血がメルビング王朝に受け継がれているとも言うが、イエスの神格化を高める目的でそれをヴァチカンは隠蔽してきた。と言うものである。 その妻とされる女性がマグダラのマリアで、キリストの処刑に立ち会い、絶命したキリストを十字架から降ろして布で包み(その布がトリノにあると言う)、三日後に墓が空っぽであったことを発見した女性である。2018年に、Rooney Mara主演で「Mary Magdalene」という映画が作られた。Joaquin Phoenixがキリストというキャストがピンと来なくて観ていないが(笑)。 他ではあまり聞かないマグダラのマリアが、南フランスに来るたびに登場するのは何故かとずっと不思議に思ってきた。それは、彼女とキリストがここ南仏のカマルグに流れ着いたとされているからである。カマルグ?私たちは何度も行ったが、そこはルイ9世が第7回十字軍を船出させた砦がある。「最も敬虔なクリスチャン王」として聖人に列せられた王が、聖地奪回でエジプトに出航する十字軍の船出をマグダラのマリアの上陸地にしたのは偶然では無いはずだ。(そして私はこの南仏の直後にエジプトでツアーをするのだ。この偶然、まるで前世で十字軍にいたようではないか(笑)。) では、海沿いのカマルグから離れ、当時人口がたった80人の山村レンヌ・ル・シャトーが何故世界を騒がせたのか。BBCが放送したことで世界に広まったこのストーリーは、1885年ベランジュ・ソニエールという33歳のハンサムで出世欲の高い司祭がカトリック教会から派遣された事に始まる。マグダラのマリアに1059年に献堂された古い教会を改築中に羊の皮に書かれた古文書を発見する。長い話をまとめると、彼はそれを持ってヴァチカンに行き、大金を持って帰ってきて、急に大きな邸宅を建て、綺麗な庭を作り、オレンジの温室を作り、教会に悪魔の像と謎のシンボルを沢山作り、そして極め付けに谷が一望できる場所に「マグダラの塔(Tour Magdala)」を建てる。 年収の120倍にも当たるそのお金はどこから来たのか?村人達は訝しがった。晩年は夕暮れに一人マグダラの塔に登って谷を見ていたそうだ。が、遂にその秘密を一言も語る事なく人生を終える。ただ、「悪魔には問題があるが、神についても疑問がある」と残したと言う。 今でも、イエス・キリストの墓がプロヴァンスにあると信じて探しているアマチュア探検家が多いと言う。その手がかりになるものが、ソニエールが教会に残した数多くのシンボル、特に不思議な山が描かれた風景画にあると言う。 別の説もある。彼が当時ドビュッシーも入っていた秘密結社フリーメイソンに入り、失われたタンプル教団の秘宝を手にしたとも言う。何も無い山村に、突如としてパリから名士が来るようになり、秘書に高級な食材をふんだんに使ってもてなさせたと言う。その館も残っている。そこを資料を読みながら熱心に見て回るフランス人の少年がいた。将来何になるんだろう(笑)。 ただ笑ってしまうのは、この話を徹底的に村興しに使っているこの村だ。立派な俳優を使ってオドオドしいビデオを作り、夏には毎年地元の俳優を集めて劇も演じられているそうだ。それに合わせて、瞑想ソロピアノコンサートなるものも催されている。今度出させてもらおうか(笑)。畏敬の念と興ざめが混じった気持ちで、山を降りてくると、数年前に泊まったシャトー・ホテルがある。なんと言うことだ。この地方に縁があるのか。 まだ、明るいので積極的に攻めようと、もう一箇所行く事にした。Sete(せと)と言う海辺の町だ。2年前にフランスでの演奏ツアーが終わってから山奥にあるNajacと言う美しい中世の城下町でバケーションを取った。そこに着いた瞬間に知り合ったフランス人の夫婦と友達になり、二日間べったり行動を共にした。その彼らが教えてくれたのが、そのセトと言う美しい海沿いの街だった。彼らの言いつけを守り(笑)、こうしてやってきた。タイミングが絶妙であった。初めての街なのに、一発で目抜き通りに着き、一発で駐車場を見つけた。 ちょうど夕暮れ、オレンジの陽の光がたっぷり水をたたえたカナルと白い建物に反射して本当に美しい。シーフードレストランが立ち並ぶ。ここでシーフードを食べずに帰るのは犯罪である。最初に目に止まったレストラン、Chez Francoisに入る。牡蠣6匹、ムール貝6匹で12ユーロ。アンチョビのパスタとスカラップのパスタを食べる。美味い。それに値段が結構手頃なのだ。これはまた来たい。食後に運河沿いをそぞろ歩きする。夕日が本当に美しい。子供たちがトランポリンで遊んだり、実に美しく平和な風景であった。 2時間でアパートに到着。真っ暗で何もない荒野に突如石の街が出現した。中世の時代にこの街に着いた旅人も同じ様に感じた事だろう。 (続く) |
第5話 7月19日 素晴らしい絵画と素晴らしい音楽 |
今朝は、昨夜の7時間の運転のおかげで眠い朝となった。が、それ幸いにと午前中は仕事をした。このフランスの滞在が終わるとNYには三日間帰るだけで、エジプトのツアーに出る。その三日間のうち二日は演奏が入っている。演奏家は演奏だけしているわけにはいかない。エジプトツアーのマーケティング活動を、窓を開いた心地よい風が吹き抜けるテーブルに座ってネット越しに行った。なんと言う時代だ。 で、昼は目の前にあるスーパーにランチの素材を買いに行く。いやー、これはすごい。果物も野菜もタップリ太陽の光を浴びて育っている。更にたくさんの瓶詰めのパテ、チーズ、見るからに美味しそうなロゼワインが並ぶ。ただし、肉類はアメリカに比べて非常に高い。ハム二切れが4ユーロで、買うのに躊躇してしまう。そういえば、フランス語の教科書の例文に「ハムを三切れください」とあった。アメリカ英語の教科書ではあり得ないだろう。 ランチの後、外出。この小さな町はもうほとんど見てしまっているが、唯一見ていないMuseeに出かけることにした。今日は太陽がすこぶる熱い。すぐに到着したが、シエスタ中で、3時に再開するとのこと。先に地図で見て気になったいたLe Templeに向かった。タンプル教団の古い建物なのかと期待したが、職業安定所になっていた。で、また中世の石の街を写真を撮りながらMuseeに戻る。ここにHistoire(歴史)の展示があると書いてあるので、入ってみたが何やらピカソの弟子かと思うアーティストの展示であった。それならやめようと思ったのだが、入場は無料で、優しいおばさんが「アントレ」と招いてくれたので入ってみた。マリア様がお年を召されたような慈愛に溢れるその女性が、Michel Timoleonthosと言うそのアーティストについて説明をしてくれた。英語はほとんで出てこないので、フランス語を最大級に絞り出して話したが、どう言うわけか会話が楽しくて仕方がない。修道院で育てられたこのアーティストが最初に書いた絵が、なんとマグダラのマリア、昨日訪れたレンヌ・ル・シャトーのテーマであった。やはりマグダラのマリアは南フランスにどこでも登場する。聖(サクレ)ではマリア、俗(プロファン)では裸婦、「結局女性ばかり描いとるやん!」と突っ込んでしまう(笑)。 そのおばさん、そして同僚のこれも優しいおじさんと沢山の話をしてすっかり楽しい気分になって、栞10枚と大きなポスターまで買ってしまった。これはNYのスタジオに貼ろうと思う。自分がジャズピアニストであると伝えるとたいそうびっくりして、ここでも夏はコンサートをやっていて最後の夜はジャズだとパンフレットを見せてくれた。 こうして知らない土地の人とその土地の言語を使って交流する、これに勝る旅行の醍醐味は無い。心がほっこりとしてきた。そして、このアーティストが大好きになった。おばさんから、この人に作品が隣の教会に飾ってあると言われ、早速出かけることにした。お別れが惜しかった。 隣の11世紀からある大聖堂は、随分とカビ臭いが、堂内は荘厳でそこには、先ほど知った画家、Michel Timoleonthosの絵が当意即妙に飾ってある。 いきなり、素敵な歌声が聞こえてきた。見上げると壇上から美しいクワイアがいる。教会では残響時間が長いために歌声に深いリバーブがかかる。さらに反対側から別のクワイアが聞こえ、さらに別のとこから、となんと素晴らしいポリフォニーの宗教曲を生でたっぷり聴かせてもらった。どうやら、ドイツから若いプロの聖歌隊が来ているようで、今夜ここでコンサートがあるようだ。そして今はそのリハのようだ。現地のスタッフとは英語で話し、楽団の中ではドイツ語、そしてスタッフ同士はフランス語の会話が聞こえる。 以前、冬にパリのモンマルトル大聖堂に入った瞬間、聖歌隊が歌う宗教曲に戦慄が立ち、そのまま立ち尽くしてしまった。今回もそれに準ずる素晴らしさだ。フォーレとかプーランクだと思うが、わからない。現代的な洗練されたハーモニーだが、歴史をキチンと踏襲している、そのバランスが素晴らしかった。因みに、私は自分が(偏屈)作曲家であるので、そう簡単には他人の音楽を好きにならない。有名な作曲家でも嫌いな人の方が多い。でも、この音楽は素晴らしかった。リハの大半を聴いてしまった。このタイミングの良さ、神からのギフトのように思えた。これでチケットを買って本番に行く必要が無くなった(笑)。 感動を胸に、そぞろ歩きでアパートに戻って今夜は自炊。今日はとてもDomesticな日なのであるが、窓から入る心地よい風を受けながらのこの地元民のような生活が最高の贅沢に思える。美術館での素晴らしい絵と優しい人たち、教会での素晴らしい音楽との出会い、素晴らしいUzesの最後の日は、それにふさわしい素晴らしい1日であった。 (続く) |
第6話 7月20日 コート・ダジュールへ |
今日は5日間お世話になったウゼから、旅の後半の拠点となるコート・ダジュールへの移動である。同じ南フランスでも、スペインの国境がちらつくプロヴァンスと、イタリア国境にほど近いコート・ダジュールは車で真剣に走っても3時間ではいけない距離がある。文化も食事も違う。きっと言葉も違うのであろう。そもそもニースは1860年までイタリアであったのだ。 さて、アパートをチェックアウトする前に、昨夜、絵図で発見したローマの水路の遺跡まで早朝散歩することにしていた。実際に歩くとかなり距離があり、かなりの山を下ることになってしまったが、頑張って山道を下り、綺麗な花が咲く草原を横切り、2000年も前に作られた水路を見た。これは、この近くに世界遺産である有名な水道橋PontDeGardの上流なのだ。改めてローマ人たちの技術の高さに驚く。と共に、ここの人たち、アパートのフィリップもウゼの城の貴族もサングラスを拾ってくれたトニーも全てローマ人の末裔なのだと気が付いた。昔からかなり高い文明を培ってきた民族なのだ。食べ物から建築から全ての芸術土が高くて当たり前である。予想外にたくさん歩いて街に戻ってくると古い石の街の門が迎えてくれた。これには個人的に感動する。 さて、優しいフィリップは私たちが荷物を運ぶのを手伝ってくれる。なんと、車に荷物を積んでいると一昨日城でサングラスをウブリエから拾ってくれたトニーがアパートの前にある街のゴミ捨て場に来ていた。ばったり出会って「ワイン受け取ったよ。ありがとう。サイトで見たよ。僕はドラマーでこのあたりで演奏している。今度は一緒にやろう。」と将来のプロジェクトまで話し合ってしまうことになった。サングラスを落としたことから始まったこの巡り合わせ!やはり、南フランスは私を呼んでいる!フィリップは私たちがグダグダGPSをセットしている間も待っていてくれる。なんて優しい人だ。車を走らせると、今日はウゼのランパート(環状道路)にマルシェ(市)が出ていて、大渋滞であったが、ちょうど停まったところが、最初の夜に食べたバーガー屋さんで、ご主人夫妻と大声でお別れをした。まるで絵に描いたような中世の街ウゼに相応しいエンディングであった。 途中高速に入る前に、こだわりのコーヒーを出すPaulに寄って今回初めてのクロワッサンを食べる。今まで食べたものでベストだ!思わずふたつ目を買って食べた。それに、従業員の少女たちが甲高いアニメ声フランス語でお客さんの対応をしている姿がとても可愛い。 さて、一直線でコート・ダジュールを目指しても面白くない。山の上に造られた中世の石の街ゴルドの奥にあるAbbaye Notre-Dame de Sénanqueに寄ることにした。12世紀に造られたこの修道院は、ラベンダー畑が美しいことで世界中に知られ、プロヴァンスの代名詞として数々のポスターに登場している有名な修道院だ。まだ写真を始めて間もない頃、ここに来てラベンダーを撮ることが夢であった。数年前に初めて来た時は冬で、ラヴェンダーは咲いていなかったので、今日は長年の夢が叶う日でもある。 ウゼから2時間、数年前に「ラベンダーの蜂蜜で焼いたチキン」を食べて感動したゴルドを横目に見ながらさらに山奥に進むと、灰色一色で一目で古いことがわかる修道院に着く。新調した望遠レンズでラヴェンダーの写真を撮った!感動。 その後、コート・ダジュールに向けてお馴染みの高速道路A8に入る。海が見えてくる。熱海かと思う風景が嬉しい。ニース、モナコ、そしてイタリアの標識が出てくる。ニースを超えると高速道路は山に向かい、かなり登る。そして、モナコの標識で下に降りると、私たちの第二の故郷(大げさ)Èze(エズ)である。 今回は、いつものアパートホテルが取れなかったので、近くに本物のアパートを借りることにした。かなりプライベートなアパートのようで、オーナー夫妻と何度もメッセージを取り交わして到着時間を連絡してあった。偶然にも、玄関でオーナーご夫婦に会う。今回の旅は全てタイミングが怖いくらいドンピシャである。部屋に案内されると、ため息を飲むようなエズのパノラマが窓一面に広がり、そこにプールがあり、向こうには、キャップ・フェラの半島と地中海が一望できる。ここに一週間暮らすのだ!モナコに住んでいるというえらく格好良い夫婦がかなり複雑なガレージ(狭い)やら庭のプールの入り方を教えてくれた。プールは朝から夜10時まで入れるとの事。 早速夕飯の買い出し。おなじみのCasinoが8時で閉まってしまうので、車でちょっと離れたところに買い物にいき、食材を調達。家で自炊。そうなのだ。私たちは旅人ではなく、ここで暮らすのだ。 暮れなずむ山沿いの中世の村エズと、夕日を浴びてオレンジに光る地中海の水面を見ながらベランダで食事。クーラーはいらない。爽やかな風に当たっているだけど至福の気持ちになる。神様ありがとう! (続く) |
第7話 7月21日/22日 ヴィールフランシュのダラダラ生活 |
7/21 (日) さて、エズ最初の朝、すっかり寝坊してしまったが、昨日の移動の疲れも残っていることと、来週始まるエジプトツアーのマーケティングの仕事があったので、午前中はアパートで仕事。仕事?ベランダにMacBookProをセットしてオフィスにした。目の前には山沿いに這うように作られた中世の石の街エズ、向こうには山が連なる。下には地中海の海が太陽の光を反射してキラキラ輝く。大小のクルーザーが停泊する。海の向こうにはキャップ・フェラの半島がクッキリ見える。そこには美しいビーチとロスチャイルドの別荘、CatsやPhantom of the Operaの作曲家Andrew Lloyd Weberの別荘もある。こんな素晴らしい環境で仕事をする、これは究極の贅沢だ。 昼に、今年初めてのビーチに出る。私たちはビーチが好きだ。日本にもアメリカにもイタリアにも出かけて行ったが、地中海ほど素晴らしい海は無い!と思っている。水の温度が究極に良くて、いつもざぶんと入って長い事浸かっていられるのだ。この辺りのビーチにも殆ど出かけているので、お気に入りのビーチがもう決まっている。Villefranche sur merである。VilleはVillage、FrancheはFree。こんな良いところは、アフリカ大陸からアラブ人、西隣からカルロス5世率いるスペイン人、東隣からはイタリア人が攻めて来る。そんな危険な場所には誰も住みたく無い。が、誰も住んでいなければ簡単に奪われてしまう。そこで、フランス国王フランソワ1世が税金を免除して人を住まわせたことから、この名前がある。古いビーチ沿いの壁に、フランソワ1世とカルロス5世の講和条約の締結地の碑を見つけた。 ビーチで火照った体をカフェに入って落ち着かせる。ビーチに行きかう人を見ながらのドリンクが上手い!海沿いにはおしゃれなレストランが並び、その横には漁船が停めてある。漁村であったのは一昔だとガイドブックには載っていたが、実際には漁に使う網が干してあったりするので、今でも魚を漁っているようだ。となると、ますますこの辺のレストランに入りたくなるが、お洒落な海沿いのテーブルに乗せられたテンコ盛りのムール貝を横目に家に帰る。 夕方は、エズのカジノで買い物。なんと数年前と同じ女性が働いていた。声をかけたら、5年前からずっと働いているそうだ。でステーキを買ってアパートで焼く。安い肉を選んで買ったが、うまく焼けた。ステーキは安い肉の方が美味いと思うのは私だけだろうか。それをバルコニーのテーブルに並べて、9時を過ぎてもサンサンと輝く太陽の元で食べるのは天国である。何だか、仕事のことも全てのこともどうでもよくなってきた(笑)。 7/22 (月) さて、昨日はビーチを満喫したビーチデーで、今日はChapelle du Rosairに出かけることにしていた。が、昨日から出てきたダラダラ感を克服出来なくなって、今日もビーチデーにすることにした。それでいいのだ! 但し、実は昨日行った私たちの「お気に入りのビーチ」の他に、私たちが「秘密のビーチ」と呼んでいるビーチがある。その名の通り小さな入江の小さなビーチで非常にプライベートであるのだ。が、小さなビーチなのに駐車場が一杯で、入ることが出来なかった。仕方ない。「秘密のビーチ」は、諦めて昨日の「お気に入りのビーチ」に戻る。確かに、ここは駐車場もいつでも入れるし、シャワーもトイレもカフェもある。来ている人はイタリア、ドイツ、イギリス、ロシアなどかなり国際的である。コート・ダジュールらしくトップレスの女性もいる。 水にじゃぼんと飛び込み、泳いで、潜って、魚を見て、ビーチに戻って寝そべって、今日は、このビーチに、これでもかと思うくらい長い時間いた。お腹が空いたので、カフェでスナック。ここにはカフェが二軒並んでいて、片方は綺麗でメニューが豊富でいつも混んでいる。もう一つは殺風景でいつもガラガラ。そのガラガラなカフェに入る。とても優しいお姉さんがお母さんのような女性と二人でやっていた。ふと、この母娘は冬の間何をしているのかが気になった(笑)。 少しほとぼりが冷めた頃に、Villefrancheの街を散策。海岸沿いの階段を登ると、中世の石の街にレストラン、ベーカリー、お土産やさんが並ぶだけの小さな街であるが、歴史は14世紀まで遡り、水汲みばから回廊までいたるところにそれを感じさせる。石段の上に教会がある。中に入ると広くはないがあまりも立派でびっくりする。この小さな街にとってやはり教会は人々の生活の中心であったのだろう。14世紀の回廊をくぐって再び海へ。 今夜の夕飯は昨夜のステーキの残りを温める。このダラダラ生活、本当に良いなぁ。 (続く) |
第8話 7月23日 サクレとプロファン(聖なるものと俗なるもの) |
二日間ダラダラと地元民になってビーチ三昧の生活を送っていたが、今日はアジェンダがある。ヴァンス(Vence)という街にあるマティスの教会にいく。ここコート・ダジュールは沢山のアーティストが住んで作品を残したインスピレーションに満ち溢れる場所でもある。数年前に私たちは、アンティーブ(Antibes)で一週間を過ごした。そこはスペインのグラナダ出身のピカソが最後に住んでいたことでも有名である。丁度戦争が終わり、新しい女性と暗いパリからこの太陽で溢れる街に来てもう一度若者に戻ったように創作活動をした。他にも、マルセル・パニョール、ジャン・コクトー、マルク・シャガール、ピエール・オーギュスト・ルノワール、この美しい風景を描き、世界レベルの作品を世に出した。そう思うとこの美しい景色のの功績は大きいなんてものではない。 アンリ・マティスもここの暮らしから作品を生み出したアーティストの一人だ。1941年、72歳のマチスはガンになる。彼は「若くて可愛い看護婦」を募集。その広告にMonique Bourgeoisという「若くて可愛い」女性が応募する。どうやら彼女に熱を上げてしまったのか、彼女をモデルに作品を創り始める。その後彼女はVenceの修道院に入り(何か懺悔することがあったのか)シスターとなる。マティスは彼女の修道院の近くに家を買う。その修道院が新しくチャペルを建てると伝えるとマティスがそのデザインに協力することになった。で、1951年、Chapelle du Rosaire de Vence、通称Matisse Chapelができる。 チャペルは撮影禁止なので、じっくりと目に焼き付けた。白地に鉛筆書きを思わせるシンプルなラインでまとまっており、そのシンプルさに迫力が漲る。マティスのその女性(失礼)じゃなくて教会への思い入れはすごいものがあったのだろう。彼は人生の最大の作品を創るつもりでいたと言う。チャペルの席に座ってしばし心を休める。 屋根瓦がコバルト色で、その青がプロヴァンスの陽を強烈に反射して、屋根の上の、それもシンプルなラインの十字架を際立たせる。その構図が素晴らしいので窓から写真を撮っていると近くにいた女性二人組と話が始まった。ここでツアーガイドのビジネスを立ち上げたオーストラリアの女性と、彼女のクライアント兼友達の日本人の女性の二人組であった。昨年秋にメルボルンとシドニーに行った話で盛り上がった。彼女はツアービジネスをしているだけあって、この辺の見どころをまとめて教えてくれた。お互いに住所を交換して別れた。旅の出会いは楽しい!彼女の名はRosaria、この修道院はRosaire、なんという偶然。 さて、道端に停めた車に戻っていざ出ようとしたら、なんと目の前が先ほどの彼女の車で、予期せぬ再会を楽しんだ。彼女のグループの集合写真を撮ってあげた。なんかみんな楽しそう。 さて、そこから彼女のお勧めにもある、Venceの街に出かける。車を街の駐車場に入れると昼のマルシェが立っていた。フライにするズッキーニの花、アーティチョーク、珍しいパイ、手作りの食材が芸術的な綺麗さで並んでいた。で、パン屋でサンドイッチを買って先ほどのパイと一緒に食べる。パン屋から、中世の城門が見える。心が踊る。急いで食べて城門に入った瞬間にびっくりした。なんと、ここは数年前に来たことがあったのだ。その時は逆から回ったので分からなかったが、その噴水でお茶をした。でも、綺麗な街なのでもう一度、今度は逆周りで見ることにした。街の中心の古い教会まで行ってみた。途中で、ビーチ行きの籐籠を買う。私はバッグフェチで、いつもバッグが欲しくなる。ラベンダーの匂い袋を欲しそうに見ていたらお姉さんが一つプレゼントしてくれた。欲しそうな顔をすることは美徳である(笑)。 先回は気づかなかったが、その教会にはシャガールの壁画がある。同じところに住んだライバル同士、一体どんな関係であったのだろう。「マティスの野郎がチャペルをデザイン?じゃ、俺はノートルダムに壁画を献上だ!」なんて火花を散らしていたのだろうか。 先ほどの女性、Rosaryからいきなりメールが入る。「さっき教えたTourette’s sur Loupが本当にいいから絶対に行くのよ!」今から行きますと答えて出発した。街の駐車場で、見終わって帰る彼女ご一向とこれから街に入る私たちはばったり出会った!で、再再会を喜ぶ。縁とはこういうことか。この旅はタイミングが全てパーフェクトである。 彼女の言う通り、崖の上に立つこの中世の石の街は絶景であった。細い石畳を歩き、中世の街と所々に入っている店を楽しんだ。さて、これで昼の部は終わり。アパートに帰ってきちんと自炊。 フランス語で夜のことをソワールという。夜の集まりをソワレと言う。奥さんが赤いドレス、私はTシャツ(笑)で、モナコに出かける。毎回南仏に来るたびにその目抜き通りモンテカルロに来て、カフェ・ド・パリで一杯飲むのが私たちのお決まりである。世界の高級車、カジノ、セレブ、ビジネスマン、お洒落とお金の街である。私は中世の城や教会、ダサイ人たちが大好きである。がそれと同じくらいにモナコも好きだ。説明はできないけれど、そこにはお金以上の何かがあるような気がしてならないのだ。友人のフランス人の女性チェリストも私の写真をみて、「クラスがあって良いよね!」と賛同してくれる。アラブのプレートの高級車もいる。そう、来週私はエジプトに行く。カイロの街の砂と埃の中で、モンテカルロのこの風景を頻繁に思い出すことになろうとはこの時は思いもしなかった。ただ、優雅な人々を眺めて優雅な気分に浸る素晴らしいソワレであった。 (続く) |
第9話 7月24日 真夜中のプールパーティー |
もう6年も前の事になる。エズからペイヨンという城壁に囲まれた山頂の村にふと遊びに行った。その日はたまたま村のお祭りで、村の人々が何故か私たちを名誉ゲストとして迎えてくれて、それが新聞にも載って大したことになってしまった。2年前は再び村に呼んでいただき、石の建物でコンサートもした。そこでできた友達が、パリのコンサートにも来てくれたり、NYで遊んだりと今でも交流が続いている。その主犯格の女性が今回Villefrancheに家を買いプールを造ったとの事で私たちをホームパーティーに呼んでくれた。 彼女、クリスティーナはフランス在住のイギリス人オペラ歌手で、世界中で演奏をしてきた強者である。「オペラ座の怪人」の主役クリスティンを演じて日本にも行き、当時の皇太子にも謁見している。今も南仏を中心に演奏を続けていて、なんとこのパーティーでは南仏のジャズ・フェスティバルをコーディネートしているベーシストに引き合わせてくれると言うのだ。 なんとエズのアパートから車で10分足らずの斜面に彼女の新居がある。入ってびっくり。午後の陽に包まれたキャップフェラの半島と海が一望できる。その壮大さ。間髪入れずにベーシスト、マルコとのセッションになった。彼はもうすでにベースとアンプをセットアップして待っていてくれたのだ。キーも曲もテンポも何も決めずに即興で合わせる。良い耳だ! 2年前ペイヨンでクリスティーナに会った時は彼女の80歳のお母さん、ヘルガも来ていた。私も両親を連れて行ったので家族ぐるみのパーティーとなった。そのヘルガが今回もいた。そこに、ヨガのインストラクターをしている綺麗な地元の女性、家の工事を請け負うフランスの男性、さらにはサウンド・エンジニアとして長年パリにいた男性と奥さん、通りがかりのオランダ人の母と息子(何故だ?)、面白い人が集まりフランス語と英語が飛び交うお洒落なパーティーとなった。そうか、コート・ダジュールでお金がある人は、こう言う絶景な場所にお洒落な家を建てて、こういう暮らしをしているのか。 飲んで食べてが一通り終わった時、今度は正式にマルコと私の演奏が始まった。ジャズのスタンダードを次々と演奏。熱気がみなぎってきた。離れているが、ご近所にも聞こえているようで、外から拍手がなる。「ニューヨークからきたジャズ・ピアニストだ」と紹介され、カーテンコールに出る。 実はこの時、指を怪我していたのであるが、そんなことは言ってられない。痛いのを堪えて一生懸命に演奏した。その甲斐があって、彼は非常に演奏を楽しんでくれて、そこから話が弾んだ。 熱い演奏で汗だくになると、ここではプールに飛び込む。いきなりシンガーの彼女が水着に着替えてプールに飛び込んだ。わお!水着を忘れた事を痛烈に後悔していたら、マルコが貸してくれた。急いで着替えて私もドボン。この気持ち良さはなんだ。コート・ダジュールで真夜中のプールパーティー?ありえない。 オペラの歌手の彼女は歌っても歌ってなくても、とにかく華がある。プールから上がって話し込んだ。私がウゼで聞いた宗教曲、彼女にはアイデアがあって、私にCDを紹介してくれて、パリのエンジニアがセットアップしたばかりのオーディオシステムでかけてくれた。石でできた白い彼女の家に、モダンでかつ伝統的な宗教曲が鳴り響いた。NYでも一度相席した彼女の元カレは指揮者&プロデューサーで「オペラ座の怪人」や「キャッツ」の作曲家アンドリュー・ロイド・ウェーバーと仕事をしていたと言う。みんななんてセレブなんだろう。 小腹が空いて再び飲み食いが始まる。最後にもう一度ピアノの部屋に戻りみんなでセッション。彼女が面白い提案をしてくれた。来年、北イタリアの湖水地方にあるマッジョーレ湖に行こうと言うのだ。その湖に浮かぶ島が宮殿になっていて(これって絶対宮崎駿の「紅の豚」の舞台になっているところだ!)、白い孔雀がいてピアノが置いてあるそうだ(笑)。そしてそこにあるホテルには、ヘミングウェイが「武器よさらば」を執筆した部屋が今も残ると言う。「A Farewell to Arms」私が若い頃読んでマジで感動した名作である。余談だが、その物語に描かれている事、イタリア戦線で英国人のナースと恋に落ちた事、二人で戦火を逃れ、湖を手漕ぎボートで渡ってスイスに逃げた事など、全てがヘミングウェイの実体験から描かれている。それはサンドラ・バロック主演の映画「In Love and War」に描かれた。 マッジョーレ湖の話はパーティーの戯れ言になると思うが、NYに帰ったらマルコから直ぐに連絡があって、来年の6月の南仏のジャズの演奏が決まった!なんと言う光栄。同じ月にロンドンでも演奏が決まっているので、ヘルガをイギリス宗教音楽のメッカでもあるブリストルに尋ねようと思う。彼女、80歳であるがとても可愛くて何故か私の両親を気に入っている。 ちょっとやそっとでは消化できない程の感動を得て、みんなと別れの挨拶をする。帰路につきながら、自分に何が起こっているのかわからなかった。分かる事は、来年もここへ来るだろうと言う事だ。 南仏ありがとう。プロヴァンスもコート・ダジュールも、私は前世でここで住んでいたと思わせるくらい、不思議な縁に満ち溢れていた。 来週はエジプトだ! (終わり) |
Camera: Canon RP, SL2 & iPhone X
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