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Jazz Pianist
Takeshi Asai's Travel Journal
Official Site

France 2017
July 3 - 19, 2017

Texts and Photos by Takeshi Asai

  1. 第1話 7月3日 “We always have Paris”
  2. 第2話 7月4日 パリの初仕事は日本から
  3. 第3話 7月6日 愛の城とジャズクラブ
  4. 第4話 7月7日 パリ・デビュー大成功!
  5. 第5話 7月8日 パリから南フランスへ
  6. 第6話 7月9日 ロッシュフォールの男たち
  7. 第7話 7月10-13日 アングレームのコンサートとギリシャパーティー
  8. 第8話 7月14-15日 山のコンサートと海のコンサート
  9. 第9話 7月16日 人魚の家のコンサート
  10. 第10話 7月17ー19日 大団円

第1話 7月3日 “We always have Paris”

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映画カサブランカのエンディングで、「私たちはどうなるの?」ときくイングリッド・バーグマンに、ハンフリー・ボガードが答える。"We always have Paris."(俺たちにはパリの思い出がずっとあるじゃないか)。

7月3日夕刻、JFKからパリへ出発した。今年で6年目を迎えるフランスツアーに出かけるのだ。最初はたった一つのコンサートだった演奏旅行も今では二週間に渡ってパリから南フランスまで、強行軍かと思うようなツアースケジュールを組んでいただけるようになった。フランスのバンドメイト、コーディネーター、地元のサポーターの方に心から感謝。それに今年は地元ニューヨークの演奏も素晴らしい機会をいただいているので、昨年まで取っていた南フランスのバカンスは返上。仕事に徹することにした。折しもテロが多発のヨーロッパ(一昨年のバタクラン襲撃は24時間前にパリを脱出していた)であるが、まさか私の小規模のジャズのコンサートが襲われることはあるまい。いつかテロリストの襲撃候補に上がるところまで行きたいものだ(笑)。

海外のツアーは、現地に着いて最初の三日間は時差ボケが激しくて音楽どころでは無い。なので今年は一工夫して、一番出発時刻の遅い便、しかも途中でストップオーバーをして(その方が航空券も安い)わざと夕刻に着くようにした。早朝に現地に着いて、究極に眠いのにホテルもチェックインできないはというのは、もうこりごりである。

予定通り、午後にシャルル・ド・ゴール空港に無事到着。パリ行きの電車に乗ろうとしたらいきなり警察がバリケードを張っている。しばらく待たされて解除となったが、やはりテロ警戒水準が最大値であることに改めて気付かされる。

ここ最近は、北駅(ギャルデュノード)の安ホテルを利用している。空港から電車一本で行ける上に、駅からホテルは徒歩で2分。しかも北駅からは地下鉄でシテ島、ルーブルなどパリの主要な場所にはすぐに行ける。郊外の城にも出かけられるどころか、ロンドンへのユーロスターも乗れる。ちなみに私は服装に気をつけなくてはならない綺麗なホテルではなく、喫茶ルノアール感覚(笑)で過ごせる安ホテル専門だ。ホテル代が昨年よりも安いのはテロの影響だろうか。

7月4日に到着であるが、アメリカの独立記念日のことは一切お構い無しである。不思議だ。1776年、ルイ16世はただでさえ急迫する財政の中で、アメリカの独立を援助するためにフランス軍をアメリカ大陸に送った。アメリカ支援のためではない、敵対国イギリスの弱体化である。当時世界の植民地でフランスとイギリスは世界の覇権をかけて戦っていた。その天王山が七年戦争で、今我々が英語を喋っているのは、その戦いでフランスが負けたからである。独立戦争で、フランス軍がボストンにやってきた時、アメリカの人々は彼らに一匹づつカエルを皿に盛って歓迎したそうだ。フランス人はカエルを食べるというので、今でもイギリス人はフランス人をフロッグと呼んで軽蔑する。

フランス軍のおかげでアメリカ独立は成し遂げられたが、その代償は大きかった。財政危機もそうだが、国王のいない民主国家建設を目の当たりにしたフランス兵たちは、もはや本国の不平等なアンシャンレジームに満足するはずがない。貴族であるラファイエットさえも民衆側に回り、フランスの絶対王政は崩壊する。フランス革命がアメリカ独立からちょうど10年後であることは偶然では無い。余談だが、革命後のフランスは、自由、平等、博愛の象徴として国を若い女性に例える。その女性にはマリアンヌという名前まで付いている。イギリスのバンド、Coldplayがアルバムカバーに使ってさらに有名になった、ドラクロワが描いた屍を乗り越える女性である。毎年フランス人の女性の中からマリアンヌが選ばれる。アメリカ独立100周年記念にフランスが贈った自由の女神も、実はマリアンヌなのである。

ホテルに着くと、私はにわかに、三日後に控えたパリのコンサートのこと、ツアーのこと、楽曲のことなど不安がいっぱい襲って来た。が、とりあえず無事にパリ着いた安心感が優ってすぐに爆睡仮眠をした。一度目がさめると、眠いのをこらえて時差調整のためにちょっと無理して散歩。気候がすこぶる良い。歴史的な北駅の散策、なぜかピアノが置いてあるので、パリでブルースを弾く。駅の近くには、かつてフランツ・リストが住んでいたというちょっとした広場がある。私のクラシックピアノの先生がリストの孫弟子だった。ということは私はひ孫弟子?な訳はない。いずれにしろコンサート前に縁起の良い話である。

エアコンはないが暑くはない。外の車の音、通りから聞こえる一年ぶりのフランス語、やはりパリは良い。頑張って12時まで起きて普通の時間に消灯。こいつは快挙だ!

明日は朝一で、日本のFM番組に電話インタビューがある。目覚ましをかけて眠りについた。

(続く)

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第2話 7月4日 パリの初仕事は日本から

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遠くでかすかにアラームが鳴っている。かなり長いこと鳴っていたのだろう、だんだんと意識が戻ってきてやっと深い眠りから目が覚めた。やはり時差ぼけのせいだ。そう簡単には起きられない。時計を見ると午前8時。通常は朝3時に目が覚めて一睡もできないが、今年は周到な時差ボケ対策が功を奏したのか、普通の時間に起きることができた。が、一時間後にFMラジオの収録で、日本から電話がかかってくる。実は寝坊なのだ。急いでシャワーを浴びて、ホテル隣のカフェに飛び込んで、プチデジュネ・フランセ、フランス式朝食をいただいた。クロワッサン、バゲット、カフェオレ、絵に描いたフランスの朝食は感動ものである。

9時、日本の局から国際電話がかかって来て、インタビューに答える。ホストは日本で活躍中のジャズ・ボーカリストとカリスマ・ビジネスウーマン。そんな輝く女性たちからインタビューを受けるのは光栄だ。1時間足らずで番組は終わり。何せ頭がぼうっとしていたので、うまく喋れたのかどうかよくわからないが、音楽を始めた経緯、パリから始まって南フランスに行く今回のツアーこと、将来の夢、日本のリスナーの皆さんへのメッセージなどを喋ったと思う。番組途中、密かにコーディネートしてくれていたらしい同級生からのメッセージも読み上げられてびっくりして感動した。パリに着いて最初の仕事が日本との暖かい交流、心強いサポートをたくさんいただいてツアーは幸先の良いスタートを切った。

ヨーロッパのツアーは、毎回初日のコンサートの前に二三日空白を入れて、ぼーっとするのが常であるが、今回は初日から非常に忙しい。ラジオ番組収録の後は、オペラ座の近くでコンサートの打ち合わせランチ、そのあとは、パリ近郊に住むフランス人ドラマーとミーティングである。真夏日の太陽のもとラファイエット通りを30分歩いてオペラ座に向かう。ちょっと時間があるので、その前にヴァンドーム広場へ。かつてここにショパンが住んでいた。今は、ヴェルサーチからルイヴィトン、シャネルからエルメス、世界のブランドが軒を並べるファッションの聖地だ。そのためか、見るからにモデルという男女が闊歩し、誰が見てもここがファッションの街だとわかる。私が行った時には、路上で撮影も行われていた。

美しい男女を見ていたらすっかり待ち合わせの時間に遅れそうになってしまったので、急いでオペラ座に戻る。オペラ座の荘厳さについては今更書く必要はないだろう。ロンドンのロイアルアルバートホール、ニューヨークのメット、国を代表する劇場はたくさん見たが、このフランス建築の粋を集めたオペラ座は格別である。正式にはガルニエ宮と呼ばれる、1874年に落慶されたバロック建築である。もっとも現代ではバスティーユに新しいオペラ座ができてはいるが、この建物を見えればいかにフランスが音楽を大切にしているのかが伝わってくる。音楽なぞなくても人間は生きていけれる。その音楽が産業として成り立っているのは、国が芸術の価値を認めているからで、それによって私のような者が音楽で生業を営むことができるのだ。オペラ座の石段を登りながら感謝の念が湧いて来た。

待ち合わせは、声楽家の夢を追っかけるまだ若い素敵な女性。彼女の自転車が壊れて遅刻している間に、オペラ座の階段に座って二日後のパリコンサートの曲順を考えた。オペラ座のエネルギーなのかどうか知らないが、非常に鉛筆が進む。

実はオペラの近くには日本食の店がたくさんある。ここはニューヨークでいうイーストビレッジなのだ。Kintaroという店を目指したのだが、長い行列ができている。パリでも、日本食ブームのようだ。仕方ないので(笑)、フランス料理屋に。日本では出てこないような分厚い三枚肉のポークと太く切ってあげたフレンチフライ(ここではそう呼ばないが)を堪能した。フランスは何を食べても美味しい。

昼にしては重いランチを食べて、急いでホテルまで戻る。約束の3時ギリギリにホテルへ戻ると。すでに友人が待っていてくれた。パリで昨年コンサートをしたフランス人ドラマーである。郊外からわざわざ電車に乗って会いに来てくれた。早速近くのカフェでペリエを飲みながら、近況報告。が、強烈に眠いので本当に申し訳ないがしばらくしてホテルに帰らせてもらった。カナダのケベックにいるベーシストとニューヨークの私とトリオを作りたいとのこと。感謝である。

先ほどまで乾いた炎天下だったのに、急に雨が降って来た。パリでいつも会うフランス人女性から、夜に出かけようとの誘いがあったが、さすがに今日は疲れていて天気が悪いので、明日にしてもらった。夜はホテルでゆっくりと過ごす。と言ってもすぐに眠たくなってその日は終わり。明日は、趣味の歴史探求で、数年前に挫折した近郊の城に出かける。楽しみだ。

(続く)

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第3話 7月6日 愛の城とジャズクラブ

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今朝は昨夜から続く雷雨の中で目が覚めた。「パリは雨が美しい」とはウッディアレンの映画、「Midnight in Paris」の中のセリフである。実際、雨の日もパリの街並みは美しいと思う。朝食は昨日と同じカフェに入って、昨日と同じプティデジュネ・フランセを注文。店の主人が私のことを思えてくれている(笑)。ただ、いかに雨が美しいとは言え、この土砂降りの中を郊外に出かけて行くのはちょっと億劫である。ホテルに戻ってしばらく待っていると、なんと雨が小止みになって、日が差して来た。これは素晴らしい!早速出かけることにした。目的は、シャトー・デクーアン(Chaateau d’Ecouen )である。

私は無類の歴史オタクで、数年前に16世紀初頭に実在したフランス国王アンリ2世の愛妾、ディアーヌ・ド・ポワチエ(Diane de Poitiers)の伝記「The Serpent and the Moon」を深い感銘を受けて読んだ。伝記を書いたのが、ディアーヌ本人の血を引くイギリス貴族であることも物語に重みを添えるが、彼女がパリ時代に自分のトレードマークにしていた黒と白が、後になってディアーヌ・ド・ポワチエが喪服から転じて着ていた色であったことを知って驚くという強烈なエピソードにも惹かれた。「事実は小説よりも奇なり」と言うがごとく、ルネッサンス王フランソワ1世亡き後の、宗教戦争、サン・バルテルミの虐殺、三人のアンリの戦い、バロア王朝の終焉など、なんとも複雑な暗い時代とそこに生きた人々の人生はまさに「奇」であった。(同じ時代を描いた映画にイザベル・アジャーニ主演の「王妃マルゴ」がある。エロい、グロい、美しい、三拍子揃った映画である。)

電車を降りて、森の中を歩くこと20分、フランスのシャトーを一つ挙げろと言われたら絶対入るような典型的な城が森の中から見えて来た。思わず心拍数が高くなる(笑)。白い大理石の壁、綺麗な瓦屋根、均等に作られた窓、幾何学的に作られた庭、真ん中にあるコートヤード、左右対称に見せかけつつも均衡を壊す教会、ベルサイユ宮殿や後世に作られたフランスの宮殿の元がここにある。

さて、伝記の主人公、アンリ二世の13年年上の養育係だった絶世の美女ディアーヌ・ド・ポワチエが、王の養育係から愛人になったのがこの城で過ごしたある夜だったそうだ。当時この城は、ネッサンスの愛を謳う美術装飾品であふれていたらしい。ルネッサンスといえば、それまで暗黒時代と呼ばれた中世から、人間性が解放され、人間のありのままの姿が再び賛美された時代である。二人の恋を高めるには十分な舞台であったことは今に残る調度品からも十分に理解できる。

博物館の係りの女性にディアーヌのことを聞いてみた。アンリ2世と王妃、カトリーヌ・デュ・メディシスの部屋はあるが、愛妾の部屋は今は無いそうだ。伝記によると彼女は夫アンリ二世とディアーヌの情事を、床に穴を開けさせて覗いていたという。

私はいつも見学順路を逆に進んでしまう。この日もそうで、なぜか人々と逆に進みながら一つ一つ丁寧に観て行った。ルネッサンスは面白い。剣やら鎧やら中世の武器が並ぶ中、新しい発明品も多い。大航海時代である。係員と話し込んでしまった。旅先の現地の人との出会いほど嬉しいものはない。17世紀のピアノも置いてある。キーボードの並びも大きさも今と同じである。そんな時代に発明された楽器が今に伝わり、私をそれを弾くことを生業にしていると思うと感動する。

見事にな城を堪能して、急いでパリに戻る。駅の前でサンドイッチを買う。田舎はいい。安い、美味しい、店のおばさんが優しい、三拍子そろった安堵感である。

急いで電車の乗って北駅に戻る。ホテルで仮眠。といいつつ、夜の待ち合わせの時間まであまりないので、すぐに起きてシャワーを浴びて出かける。次の日にコンサートを控える身でありながら、前の晩に遊びに行くというのも、真面目に考えるとおかしいのかもしれないが、私は最近、なるべくノーと言わないようにしている。そもそも私を夜のパリに誘ってくれる地元の女性がいる、ノンと言えるはずは無い。北駅から、「4番電車でSt. Michel Notre Dame まで行き、そこで降りてサンジェルマンからセーヌ川を歩いて、本屋Shakespere まで来い」という指示に従って、夕刻のシテ島を歩く。絶景だ。パリのど真ん中に、指示通りの英語の本屋があって、ちょっとした英語のコミュニティになっている。パリはフランス人だけのものではない。

やはり地元の人は違う。サンジェルマンに住んでいるという彼女はまるで庭のように音楽クラブやレストランに連れていってくれて、時には楽屋にまで入れてくれ、店の人に紹介してくれた。セーヌ川沿いにカフェが満席だったので、ビールを買って道端で飲む。なんという綺麗な景色だ。彼女は数年前に私のコンサートに来てくれたのをきっかけに、それ以来私の音楽を強烈にサポートしてくれる。その夜は、あるジャズの店に連れて行ってくれて、尻込みする私を無理やりジャムセッションに申し込ませ、ほぼ無理矢理一曲弾かされた。席に戻ったら、マスターと来年の7月にその店に出演する話をまとめてくれていた。パリのクラブで演奏するということは至難の技である。なんという光栄。

先ほど演奏した5拍子の曲と来年のパリでの演奏話で身体中の体温が上がるのを感じながら地下鉄に乗ってホテルへ戻る。明日はいよいよトリオのパリ・デビューである。

(続く)

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第4話 7月7日 パリ・デビュー大成功!

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今回のツアーは時差の調整が非常に上手くいった。多少のモヤモヤ感はあるものの三日目の朝は通常と変わらず目がさめた。今日は自分のトリオのパリ・デビューである。自分はニューヨークに、バンドメイトは南フランスに住んでいて、パリはファン層も少ない、いわばアウェーである。演奏の出来よりもお客さんが来てくれるのか、それが大きな心配事で、実はかなりの緊張を持っていた。

コンサートの集合は午後5時半。体力温存と言えどずっとホテルにいるとかえって疲れてしまう。かと言って炎天下に外出する気にはなれないので、考えあぐねていると、ルームサービスに追い出されてしまった。仕方がない、モンマルトルまで散歩することにした。

パリに来てモンマルトルに行かない人はいないだろう。モンは丘、マルトルは殉教という意味で、その昔デュ二(Denis)という宗教者がこの丘で斬首された。デュ二は自分の首を抱えてそこから北に10マイルほど歩き、そこで息途絶えた。人々はそこに聖堂を作り、彼は成人に列せられた。フランス革命までの歴代の王と王妃の墓所となったサンデュニ大聖堂である。ルイ16世とマリーアントワネットの墓もそこにある。まるでライダーがヘルメットを抱えるようにして自分の首を小脇に抱える石像があちこちで見られる。笑って良いのか悪いのか(笑)。

コンサート当日なので、外出は当初30分の軽い散歩のつもりであったが、「家具の音楽」で有名な世界的作曲家エリック・サティが、自宅のあるアルクイユから毎日片道1時間40分かけて通っていたカフェ、シャノワールをまた見たくなった。実は偶然にも次の夜、アルクイユでディナーに誘われていた。サティーのゆかりの地を案内してくれ、サティー協会の会長さんを紹介してくれるとの誘いをいただいていたのだが、私は次の夜に南フランスでコンサートが決まり、辞退せざるを得なくなってしまった。その主催者はなんと昨年、南フランスでバカンスを取っている時に、ホテルで知り合って意気投合したフランス人カップルで、偶然にも私が大学で論文を書いたエリック・サティの街アルクイユに住んでいた。今夜パリのコンサートに来てくれるそうだ。バカンスは時として大きな仕事につながる。

シャノワールを見たら、バズ・ラーマンの音楽映画にも使われたムーランルージュも再度見たくなったので、炎天下をまたしても歩いてしまった。そこまできたら、サクレクール寺院もせめて下から眺めて写真を撮ろうと思い、観光ルートを辿ってしまう。で、いざ階段の下に行くと、なぜかエネルギーが湧いて来て、頂上まで、しかも走って階段を登ってしまった。結局フルコースの観光をしてしまった。数年前、冬にここに来た時に、たまたま日曜日であったので、荘厳なミサが始まるところであった。そこで聖歌隊が演奏しているプーランクと思わしき宗教曲に魂が震えるほどの感動を覚えた。現代的な話声と伝統的な話声の組み合わせが作曲家としての私の脳天をとろけさせた。その曲をもう一度聴きたくて随分と探しているのだが、CDをいくら聴いても見つからない。おそらくレコーディングでは再現できないような何か特別な空気がその朝にあったのだろう。

小寒いくらいの聖堂から外に出ると、申し分なく晴れ上がったテラスからパリの街が一望できる。来年も来よう!そう思って自撮りした。そう、なぜか階段の下にピアノが置いてある。モンマルトルのピアノを弾かない手はない。友達にハッピーバースデーを弾いてあげてビデオに撮った。

で、シャワーを浴び夕刻のコンサートに歩いて出かけて行く。オペラ座の近くにあるサロンコンサートで古いスタインウェイは見事に調律してある。ありがたい。バンドメイトは南フランスからわざわざ6時間かけてやって来てくれた。会場で一年ぶりの再会。一年ぶりなのに、あたかも昨日まで一緒に演奏してたような親近感がある。これは貴重だ仲間だ。

ただ、本番まで1時間しかない。新曲を一曲、手短にリハをして、あとはぶっつけ本番。ジャズの醍醐味だ。もちろん、まだまだ意思の疎通が万全ではないが、一年ぶりの演奏にしては、びっくりするほど上手くいった。パリなんかでコンサートをして誰が来てくれるんだとの数カ月に及ぶ心配はすぐに吹き飛んだ。友達がいないと思っていたパリに突如友達たちが出現した。直前にインタビューを機に知り合ったロンドンのジャズファンやミュージシャンがユーロスターに乗って大挙して来てくれた。パリの小さなサロンは好意的なお客さんで一杯で、フレンチトリオのパリ・デビューは大成功であった。終わってから、フランス語の人たちとロンドンからきた英語の人たちが分かれて打ち上げに行ったが、私はロンドン組に合流し(ごめん)遅くまで寿司を食べながら話し込んだ。店を閉めだされ、夜もふけるパリをみんなで闊歩しながら、この奇跡に感謝した。

遅くにホテルに戻りベッドに入っても興奮はなかなか冷めなかった。

(続く)

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第5話 7月8日 パリから南フランスへ

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ホテルで目が覚めた。昨夜は今回のツアーの目玉、パリコンサートが成功裏に終わった。あれほど緊張と心配していたトリオのパリ・デビューから一夜明けて、まるで昨夜は夢を見ていたのではないかと思うような不思議な感覚であった。

さて、朝食を食べて昨夜の機材をピックアップするために徒歩で会場に向かう。バンドメイトは演奏が終わったらいっぱい飲みたくて、機材を置いてバーに行ってしまった。オイオイ。相変わらずパリの道は複雑でまたしても迷子になっらが、地元の工事の人が助けてくれた。愛想が悪いという評判は何処へやら、親切に教えてくれるではないか。下手なフランス語で誠意が通じたと思う。上手くなっちゃいけないな(笑)。

一台のワゴン車に、アコースティックベース、ドラムセット、アンプ、そしてバンドの三人、パリの道端で積んでは降ろしの繰り返し、時々通りかかりの人と談笑しながら一時間ほどかけて詰め込んだ。が、まだ私のホテルに行って私のトランクケースを積まなければいけない。私の目にはどう見ても積めそうも無いので、一人でTGVで行くと提案しても、絶対に詰めると言う。確かにその通りであった。が、エコノミー症候群どころではないほどに私は荷物の間にぎゅうぎゅうに積み込まれてパリを出発。水を飲む動作だけはかろうじて確保した状態で車は炎天下の中、高速道路を南下した。パリと南を結ぶ有名なA10である。パリの出たのは正午。今夜は8時から南フランスのバンドワール(Vendoire) という小さな町で演奏がある。推定で六時間、着いてすぐにセットアップである。記念すべきトリオのパリデビューの翌日くらい、余韻に浸りたいものだが、そうは問屋がおろさない。それだけではない、その日から南フランスで三夜連続コンサートなのだ。なんというハードなスケジュール。もちろん、嬉しい悲鳴だ。

高速道理から、時折原子力発電所が見える。そう、フランスは世界でもっとも原子力発電に頼っている国なのだ。美しい中世の古城と並んで原子力発電所が絵図にも記されているのは不思議だ。

フランスは陽が長い。10時にやっと日が暮れる。以前、古城でコンサートをした時に、星空の元で「星影のステラ」を弾きたいと言ったら、その時間はまだ暗くないって却下されてしまった。コンサートが終わってみんなで打ち上げる頃にやっと日が暮れたことを思い出す。

車の中で、昨日の疲れがどっと出てきて、よく眠れたのは幸いだった。6時間に及ぶ運転、お疲れ様。長旅の後、景色は朝いたパリとは正反対の田園風景が広がり、目をみはる立派な中世の城をいくつも通り過ぎて、やっと小さな石造りの学校にやってきた。その名も、L’ecole、かつての学校を改造したレストランでの演奏である。とても優しいフランス人夫婦が、かつてのこの村の学校の建物を買い取ってレストランを開いたのだ。と言っても演奏は野外。南フランスでは、夏の演奏は野外が多い。

さすが南フランス。終わってからの食事がすごかった。食前の海産物のオードブル、飲み物は地元の赤ワイン、メインはこの地の名物で香ばしく焼いたカナール(鴨肉)、そしてデザートはチョコレートムース。これぞ南フランス。12時を過ぎてようがなんだろうが、気がすむまで食って飲んで静かに時が流れる。それに、この気候、暑くも寒くもなく、心地良い風が身体中を駆け巡る。なんという贅沢だ。高いホテルに泊まるのも良いだろう、でもこのテラスでみんなとワイワイ取るこの食事、これほどの贅沢が他にあろうか。

すっかりお腹が膨れて、演奏の疲れが出てきて眠くなる頃に退散。今夜からしばしお世話になるバンドメイトで大の親友、ドラマーのマキシムのアングレームの家に到着。ここが南フランスのベースキャンプとなり、ここからさらに旅を続ける。昨年子猫だったアラスカ君が今年は大きくなっていた。

(続く)

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第6話 7月9日 ロッシュフォールの男たち

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アングレームの眠りは深かった。四夜連続コンサートの三日目、この日は二時間かけて海辺の町、フーラに行く。このあたりには、ミッシェル・ルグランが音楽を手がけた音楽映画「ロッシュフォールの恋人たち」で舞台になったロッシュフォールがある。最近アメリカで話題になった「La La Land」はこの映画の子孫とのことらしい。若きカトリーヌ・ドヌーブが歌って踊る、どこか滑稽だが優雅な映画だ。

バンドメイトのマキシムは人気者で、地元に帰ると毎日のようにパーティが入っている。毎年夏になるとやってくる私への招待だと言う彼であるが、彼の人柄であることに間違いはない。フーラのコンサートに出かける前に、近くの農家に立ち寄る。実は夏にフランスで過ごすのは5回目で、パーティーに出るたびに、ちらほらと知った顔が並ぶようになった。一年ぶりの再会をハグしあって喜び、旅の話、音楽の話、友達の話であっという間の二時間を過ごしてしまった。すっかり出来上がってしまって、今夜のコンサートに出かけて行くのが億劫なくらいである。もちろん、新しい出会いもあって、明日のアングレームのコンサートに是非行きたいと言ってくれた女性がいた。モテてる?いや、それは絶対無い。ただ、このアングレームという町、今ではヨーロッパのアニメのメッカで、毎年2月にアニメフェスティバルが開催されるだけでなく、ここに日本アニメ学校ができ、ジブリとワークするようなスタジオもあり、ヨーロッパ各地からもアニメの仕事をしに人が集まる国際色豊かな町なのだ。だから、日本人や日本への関心もかなり高く、会話では日本文化、アニメ、芸術の話題に花が咲く。

名残惜しいがパーティーの古い友人と新しい友人を後にして、炎天下の中2時間のドライブで海沿いの街フーラに着く。この日は、ある方のお宅がサロンコンサートをホストしてくれる。大きくはないが庭の綺麗な瀟洒な邸宅だ。昨年から、私たちのトリオを真剣にサポートしてくれ、複数のコンサートをオーガナイズしてくれるカップルと再会を喜び合った。そう、こちらでは男も女も頬に左右キスをする。最初は抵抗があった、と言うか今もあるが、昨年から大好きになった二人との再会はやはり嬉しい。喜びを持ってキスをした。

機材をセットアップして、わずかな時間に新曲のリハをする。ジャズのバンドは大抵そうだが、リハーサル(フランスではレペテェシオンという)はほとんどしない。今日から新曲を投入する予定だが、本番前にさっと合わせるだけである。この日もそうであった。実は初回のリハでの演奏が一番良くて、本番では新鮮味を欠いてしまった。次回から、リハそのものをやめてしまって、全プログラムぶっつけ本番にした方が良いのかもと思う今日この頃だ。ジャズという即興性を重んじる音楽のなせる技であろう。

この街でのコンサートは演奏前に必ず主催者と演奏者が一緒にアペリティフ(食前酒)をいただく。私は演奏前にはアルコールを飲めないのでジュースで乾杯であるが、庭のテーブルにはありとあらゆるオードブルが並ぶ。圧巻は生カキだ。大西洋岸のこの街は近くでカキの養殖をしているとのことで、夏でも新鮮なカキが食べられる。私がカキ好きであることを昨年知って以来、わざわざ顔を見てから買って来てくれる。レモンを絞って、フランスパンと一緒に食べる。こいつはたまらない。またしてもこの贅沢。

食べ物につられて来ているのかコンサートで来ているのか、ちょっと怪しい感もあるが(笑)、この日も昨年に引き続きたくさんの人が集まってきてくれた。中には京都にいたという研究員もいたりで、相変わらずフランスの田舎町は国際色が高い。昨年来の再会の人もいる。そいつは本当に嬉しい。

演奏はお客さんの熱い声援のおかげで、疲れが出て来てもおかしくない三夜連続に関わらず、良い演奏になった。ツアー最終日にもう一度この街で私たちのトリオをホストしてくれる貴族かと思うような品の良い女性が聴きに来てくれていた。終わって、相変わらず時間を忘れてみんなで食事、ワイワイしながら夜が更けて行くのであった。こんなに楽しくて良いのかな。これって、もしかして人生のハイライト?

(続く)

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第7話 7月10-13日 アングレームのコンサートとギリシャパーティー

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さて、今日は四夜連続の最終日、ベースキャンプのアングレームである。かつてのワインセラーをそのまま使った強固な石の建物だ。昨日の演奏にちょっとした手応えを感じ、意気揚々と会場に入る時にバンドメイトから突如、今日のコンサートにはこの地方でもっとも有名なジャズピアニストが聴きにくる予定だと聞かされた。がーん。これは困る。この手の話は実はよく聞く。ジャズピアノの巨匠オスカー・ピーターソンは、観客の中にアート・テイタムがいることを知った途端萎縮して弾けなかったとか。学生の時に出かけて行ったマスタークラスで、ボブ・ミンツァー(私の歯科医の親戚だそうだ)に、「緊張しますか?」と生徒が聞くと「しない。そこにジョー・ヘンダーソンがいなければ。」と答えた。先ほどまでのやる気は一瞬でしぼんでしまった。みんなが同じような体験をシェアして慰めてくれたが、なんの慰めにもならない。10分間、借りて来た猫のようになって何も言えなくなってしまった。実際、最初の二曲までは、「あ、音をミスった。ディディエが笑っている。」「あ、リズムがずれた。ディディエが笑っている。」という妄想に悩まされたが、その内に何もかも忘れて音楽に集中できるようになった。終わったら、ディディエが素晴らしい音楽だと褒めてくれた。彼が自分のCDを私にくれ、私も彼がニューヨークで演奏できるように手助けすると申し出た。同業のライバル(それは怒られるけど)ピアニストと友情が芽生えた瞬間であった。

相変わらず、演奏後はみんなでパーティ。おととい知り合った女性もきてくれた。たくさんの友達もできて、これもまた至福の瞬間である。みなさん本当にありがとう!

さて、これでパリから始まる四夜連続のコンサートが終わった。次の日はさすがに疲れて昼まで眠った。今日からは、洗濯と休養と、毎日のように続くパーティーが仕事になる。アングレームの音楽院で教えている教授仲間とすっかり友達になったので、彼らとの交流は心から楽しみである。オーストリアから来た、哲学者のような風貌で、友達も少なく女性にはほとんど縁のないピアニストがなんと自宅でバーベキューをやってくれた。喋ればフランス語でもボソボソ、一生懸命英語を喋ると、元カノのイギリス人からダメ出しが入って大爆笑。でも、彼の優しさがみにしみて、忘れられないパーティーとなった。

もう一つ忘れられないのが、ある素敵な夫婦が、瀟洒なお宅で開いてくれたギリシャ・パーティーだ。ギリシャ・パーティ?私は、プールサイドに、白いギリシャのトーガをまとったセクシーなフランス人女性が集うパーティーを想像した。鼻血が出そうである。マキシムとギリシャの服、ギリシャの音楽など何ができるか考えたが、何一つ揃わないので、手ぶらで出かけることにした。

そうしたら、なんてことはない。家にインテリが集まって、政治、文化、歴史について永遠とフランス語で語りあうパーティーであった。私が唯一参加できたのは、フランスのバロア王朝の「三人のアンリの戦い」であった(笑)。

近くに中世からの残る綺麗な教会がある。有名でもなんでもない誰もいない小さな教会であるが、それが800年もそこにあると考えると感無量になる。ちょうど差し掛かる夕日にコクリコが綺麗に咲いていた。コクリコの赤い花は、100年戦争でフランスで戦死したイギリス兵の血の色で、彼らの生まれ変わりだと言い伝えられているそうだ。それもまた奥の深い話である。

さすがに夕方になると寒い。みんなで部屋に入ったら、ホスト夫婦がギリシャの料理を出してくれた。これがギリシャ・パーティーだったのだ。テレビで見たからと作ってくれた美味しいギリシャの肉料理をいただいたら、それも奥さん手作りのよく冷えたオレンジのデザートが出て来た。ギリシャ語でPortokalopita、フランス語ではgateau à l'orange、私が訳せばオレンジケーキである。これ、今まで食べたケーキで一番美味しいかも。オレンジの甘さがよく冷えた生地と非常に合う。さすが暑いギリシャのデザート、夏に食べるには最高だ。

相変わらず、会話には全部参加できない私であったが、そんなことよりも、この素晴らしい人たちのホスピタリティーに感動した。静かな夕暮れ、中世から伝わる教会、美味しいデザート、美しい奥さんが喋る美しいフランス語、普段ニューヨークでめまぐるしく生活している私には、とても穏やかな、時計が止まってしまったような素晴らしい南フランスの夜であった。

(続く)

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第8話 7月14-15日 山のコンサートと海のコンサート

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今日はフランスの革命記念日だ。ここ数年、アメリカ独立記念日の花火をミスるのにフランスの革命記念日の花火は必ず見ている。フランスには本当に縁があると思う。

少々歴史小話を。ニューヨークを最初に発見したのは、イタリア人探検家ベラザノであることはよく知られている。そのベラザノの探検隊に資金援助をしたのは、フランス国王フランソワ一世で、彼はバロワ・アングレーム家の王で、このアングレーム出身である。(もっとも生まれたのは今はコニャックの産地、その名もコニャックである。)従って、ニューヨークは最初、ヌーベル・アングレームと呼ばれていた。それがオランダの手に渡り、ニュー・アムステルダム、イギリスに渡りニューヨークになった。私のような日本人でニューヨークに住むミュージシャンが独立記念日にアングレームで演奏すると言うことは何かの因縁があるような気がしてならないのだ。

さて、そのアングレームの城下町から30分ほど行った田舎町に立派な廃墟となったお城がある。丘の上に今も残る城壁は見事だ。その真下が今日のコンサート会場である。数年前に知り合ったアングレームのシンガーソングライター、スティーブとなんとも素敵なガールフレンド、オフィリが、二人で無農薬農家を営んでいる。その農家でコンサートをホストしてくれるのだ。ミュージシャンだけあって、立派なピアノを置いて、それを調律して迎えてくれる。なんと言うありがたさ。パリから数えて五つ目になる今夜のコンサートはライブ録音される予定で、うまくいけばCDとなる。ちょっと緊張してくる。

セットアップしていたら、哲学者フリードリッヒ・ニーチェの言葉「Sans la musique, la vie serait une erreur.(音楽がなければ、人生は間違い。)」というフレームをパスカルが見つけて教えてくれた。さすが音楽家のスティーブ。高名な哲学者からお墨付きを頂いたような妙な安心感が出てきた。

アングレームには、立派な音楽院(コンサバトワール)があるだけあって、そこの教授陣がたくさん来てくれる。懐かしい顔がたくさんいて、同窓会的でさえもある。ただ、音楽家が聴きに来てくれると言うのは非常に光栄だが、やりにくくもある。やはり彼らの耳は違う。どうしてもアカデミックだったりプロの聴き方で聴いてくれるので、喜んでくれるものが違う。中には、私のピアノのところにやって来て、自分が気に入った曲の譜面を見せてくれというジャズの先生がいた。作曲者である私の目の前で私の曲をピアノで弾いて唸ってくれ、「いい曲だ。CDを買わせてもらいたいが、今日は現金がないからダメだ。」そう言って買わずに帰って行った(笑)。

三連休で休養十分の良い演奏になると踏んでいた割には、なぜかこけた。理由はわからない。ホストも素晴らしい、ピアノも良い、疲れもない。でも、三連休で演奏感覚を失ったのか。音楽、特に生演奏は非常に繊細である。かなりがっかりしたまま、ジャムセッションに突入。スティーブがマイクを持ってやって来て、ジャズスタンダードをジャムる。何故か、非常に楽しくて、非常にピアノがうまく弾けた。ふーん。レコーディングというので、CDを作るというプレッシャーが敗因だったのだろうか。ちょっと自分が情けない。

演奏が終わって、やっと暗くなった10時頃、城の上に花火が上がる。みんなで庭から眺める。シチュエーションは最高なのに、演奏の不発がやたらと悔やまれた。

さて、次の日、気を取り直して、海辺の街フーラに再び向かう。2017年ツアーの最終二日は、ここのフーラでの二夜連続である。昨日が山のコンサートならばここは海のコンサートである。フーラに着くなり、強烈な太陽と海の香りがする。

急いでセットアップ。今日はサウンドの問題があって、レコーディングができない。となるとどうだろう。のびのびと自由に演奏ができて、とても良いコンサートになるではないか。やはり、昨日のコンサートの失敗はレコーディングのプレッシャーだったのか。情けない。

演奏を終わってから、お客さんと心から交流を楽しんでしまった。昨年もきてくれて仲が良くなった女性が、なぜか自分の出である貴族の紋章を見せてくれた。普通の人には退屈な話であろうが、私には面白く聞き入ってしまった。彼女の名字は、de Montgazon 紛れもない貴族の名前である。しかし、なぜ私に貴族の話をしてくるのだろう。私の歴史オタクぶりは秘密のはずだが(笑)。

すっかり仲間意識が芽生えてしまったスタッフの人との別れ際、明日の正午はみんなでビーチに行くことに決まった。コンサートの当日にビーチに行った記憶はかつて無いが、心が飛び上がって喜んでいるのがわかる。明日が楽しみだ。

(続く)

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第9話 7月16日 人魚の家のコンサート

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海辺の町は心地よい。クーラーを全く使わない国であるが、海からの風を浴びながら気持ちよく眠った。で、朝食の後は、みんなでビーチへ。最高である。地中海のビーチほどの透明度はないが、鉱物が滲み出ている黒ずんだ水が、本来の海水浴の原点を見せてくれる。こんな広いビーチにどうやって待ち合わせるのか心配したがなんてことはない、常連が同じ場所に毎日やってきて、ビーチが社交場になっているのだ。大西洋の海は水が冷たくどっぷり浸かるのに時間を要するが、一旦入ってしまえば思いっきり泳げる。体が冷えたらビーチで甲羅干し。気持ち良い。程よいところで引き上げて、シャワーを浴びて、ローストビーフのランチ。で、昼寝をしてコンサート会場に出発。

フランスツアー2017の最終日、7回目のコンサートは、フーラの中でも最高のロケーション、大きな石造りの城館である。この地の家には、皆名前がついており、この風格漂う海に面した家は、Les Ondines (レゾンディーヌ)人魚と呼ばれている。昨年も大きな垂れ幕で迎えてくれたホストは、今年も同じ垂れ幕で「Welcome Back to the French Trio」と盛大に迎えてくれた。その誠意に泣けてきた。品の良い、貴族の末裔なのではないかと思うようなご夫婦は昨年からトリオを応援してくれる。普段パリで仕事をしているというご主人は、なんとパリのコンサートにも上司を連れてきてくれた。ので、今夜で会うのは二回め、奥さんも数日前のコンサート以来、二回目である。

ピアノは、昔はスタインウェイのライバルだったというドイツのiBach、美しいが古すぎてモダンなジャズのレコーディングに耐えられるか大いに心配である。いつも私が悩むと、さっと現れてフクロウのように叡智をくれるのがバンドメイトのマキシムだ。「レコーディングのことは忘れてしまえ。良いレコーディングができればCDを作って、できなければ作らない、それで良いじゃないか。」全くだ。CDを作るというのは、良いコンサートをした副産物であり、それよりも、今日来てくれるお客さんのために演奏する。そう、それしかないのた。

それにしても、窓から見える海の景色は感動もので、開演前にこそっと抜け出て思わず写真を撮ってしまうほどの美しさだ(後日その写真がCDのジャケットとなる)。陽のある時は、海岸沿いのアスファルトが黒光りし、夕暮れは海の水に夕日が反射して真っ青とオレンジの組み合わせが絶妙である。これ以上のコンサート会場は他にあるだろうか。

開け放された窓から海の風が入ってくる会場は満員で、お客さんのエネルギーと熱気が直に伝わってくる。コンサートは昨年発表した曲から始めて新曲を盛り込み、丁寧に曲目を解説した。「芸術の根本は愛だ!」と最近複数のソースから同時に入ってきた。そういうものは私は神の啓示だと受け止める。ナルシストではだめ、だけど自分の楽曲や演奏への惜しみない愛が人を感動に導くのだ。

セットを重ねるごとに演奏が熱くなり、最後はアンコールにつぐアンコール、気がおかしくなりそうだ。自分が作った曲を自分の拙いピアノ演奏で伝えたものを、フランスのお客さんが感動してくれる。その光景に自分が感動した。

終わってから、ある女性がやって来て「私は昔エールフランスのスチュワーデスで」と若かりし頃の写真を見せながら、「来年はパリでおあなたのコンサートをホストしてあげるわよ。」と行ってくれた。フランスの文豪オノレ・バルサックも英雄ナポレオン・ボナパルトも女性の力で出世した。私も女性の力を借りるのかな?もっとも来年覚えていてくれたらの話だが(笑)。

身体と頭がどうかなってしまうくらいの興奮の中で機材を片付ける。もちろんパーティーは夜半過ぎまで続く。挨拶が永遠に続く。別れが惜しくて惜しくてたまらない。

その夜から身柄を引き取ってくれる(笑)友人の車の乗せてもらいながら、真っ暗になった海を見た。朝のビーチと演奏で火照った体に、海風が気持ち良い。この世の体験とは思えないほどの光栄をいただいたフランスツアー最後のコンサートであった。

(続く)

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第10話 7月17ー19日 大団円

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フランス最後のコンサートが大成功に終わり、ロッシュフォールに住んでいる日仏のご夫婦に引き取られ、昨年に引き続きご夫婦手作りの家に二泊三日でお邪魔することになった。ツアー後のミニバケーションである。

ロッシュフォールといえば、ミッシェル・ルグラン音楽、若きカトリーヌ・ドヌーブ主演の音楽映画「ロッシュフォールの恋人たち(les demoiselles de rochefort)」が有名である。ロッシュフォールに住む美しい音楽家姉妹の物語である。

ロッシュフォールに住む美しい音楽家姉妹?そう、ここの家には可愛い音楽家の姉妹がいる。昨年は姉妹が立派な日本語で私をロッシュフォールの街、映画ゆかりの場所、家庭菜園を案内してくれた。この姉妹の音楽的才能には眼を見張るものがあることは知っていたが、13歳と16歳になった今年は、一年で見違えるほどの成長をとげ、プロの私を唸らせた。これは映画の再来、さしずめ「ロッシュフォールの姉妹たち」である。

これは、泊めていただいたお礼に、この姉妹をプロデュースしよう。そう申し出たら、即座に乗って来てくれた。それからまる二日間、朝から深夜までひたすら曲をアレンジし、持って来たフレンチトリオ用のレコーディング機材を引っ張り出して来て、二人のレコーディングをした。その楽しいこと楽しいこと。姉妹のあまりのも純粋な音楽愛に応えて、自分のバケーションは喜んで返上させてもらった。

レコーディングが一段落しても、私の出発する時間ギリギリまで、ミュージックビデオの構想を練り、ビデオ撮影をお父さんに託して、素晴らしいロッシュフォールを後にした。

最寄り駅は、La Rochelle、私のニューヨークの自宅は、New Rochelle。そうなのだ。17世紀、ルイ13世に仕えたリシュリュー総裁が、フランスの新教徒、ユグノーをラ・ロッシェルで包囲し、その亡命者たちが新大陸で作った街が、今私の住んでいるニュー・ロッシェルなのだ。この歴史の妙。ユグノーたちは命の危険と戦いながら船で海を渡った。私はTGVでパリに行き、直行便でJFKに飛び、UBERで帰る。家族全員でLa Rochelle駅まで送ってくれて、乗り方を教えてくれた。ありがたい!

さて、フランス語の聞き取りもおぼつかない私には、車両番号の見方もよくわからない。スターワォーズに出てくるのではないかと思うくらい長い電車がホームに入って来て(ビデオを撮影)、レコーディング機材の入って重いスーツケースで身動きが取れない私は、とりあえず近い入り口から乗り込み、廊下の補助椅子に座っていた。これなら文句は言われまい。

しばらくすると、コーヒーを持った男性が通りかかり、その匂いで無性にコーヒーが飲みたくなった。すぐ近くに食堂車がある。欲求には逆らえず食堂車に入る。するとそこに車掌さんがいて、チケットをチェックしている。堂々と持っているチケットを見せると、この電車はシャルル・ド・ゴールには行かないと言う。「え、これ正しい電車でしょう?」「違う、この電車は、◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」「すみません、英語で言ってもらえますか?」「君はフランス語出来るんだろ。この電車は、◯◯◯◯◯切り離す◯◯◯◯◯次の駅◯◯◯◯前の車両◯◯◯◯乗り換え◯◯◯◯◯。」どうやら、小田急よろしく、次の駅で前と後ろを切り離して、今乗っている車両はフランダースの方に行くようなのである。大変なことになった。次の駅で降りて、ホームを走って前の車両に移るのだ。荷物さえ軽ければ。

扉の前で降りるのを待っていると、さっきの車掌さんが現れた。「2分ですか?」「いや、1分だ。急げ!」私が乗っていた車両は6号車で、目標は連結を挟んでの16号車である。ドアが開くや否や、飛び出し、二つのスーツケースとバックパックを持って、人混みのホームをひたすら駆けた。何両分走ったかわからない。かなり走って16号車に飛び込んだ。もう体力の限界で、駆け込んだ入り口に崩れ落ちて、そのままシャルル・ド・ゴールまで動けなかった。

あの時、コーヒーが飲みたくなって食堂車に行かなかったらどうなってただろう。絶対に今頃フランダースで、飛行機には乗れない。あのコーヒーを持った男性は神が送ったのか。この偶然に間一髪のところを助けられたのだ。

シャルル・ド・ゴールに着いた時には本当に嬉しかった。狐につままれたような不思議な思いでにチェックインし、搭乗口に行ったら、なんとそこにピアノが置いてある。空港にピアノ?しかも、自分の飛行機の搭乗口?なんで?とりあえずピアノに座り、二週間お世話になったフランスへの感謝の気持ちを即興演奏した。そんな曲では表現できないほどのミラクルが起こり続けた不思議で素晴らしいフランスツアーであった。France, je vous remercie!

(終わり)

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Camera: Canon 6D and SL1
Lens: Canon 70-200mm f/2.8L IS II, Canon 24-70mm f/2.8L, Canon 17-40mm f/4.0L, Canon 2.0x EF Extender and Canon EF-S 10-18mm f/4.5-5.6 IS STM
Tripod: Manfrotto Lightweight Element Traveler Big Red