Jazz Pianist
Greece 2023
July 17, 2023 - August 1, 2023
Texts and Photos by Takeshi Asai
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第1話 ギリシャへ |
23年夏、私たち夫婦はそれまでのパンデミックの鬱憤をはらすが如く特大のバケーションを計画した。そう、ハイシーズンの美しいギリシャに出かけてエーゲ海の島巡りをするのだ。 最近パキスタンで仕事をしていたバークリー音大の同級生がガンダーラ文明について教えてくれた。ガンダーラの仏像が何故皆西洋顔をしているのか?それはギリシャのアレクサンダー大王がアジアの遠征にたくさんの兵士を連れて行き、そのまま残った彼らが仏教徒となって得意な彫刻技術で仏像を彫ったからだそうだ。 そもそも、ギリシャは世界と言わずとも西洋文明の発祥の地として今だにヨーロッパ人から憧れを持たれている。哲学者のプラトンやソクラテス、劇作家ソポクレス、ギリシャ神話に描かれた喜怒哀楽を持った人間的な神々、全能の神ゼウス、女神ヘラ、海の神ポセイドン、愛の女神アフロディーテ、アポロ、アルテミス、エルメス、エロス、オイディプス、パンドラ、アンドロメダ、ナウシカ、イカロス、今も様々なところにその名を残し世界中の芸術家のインスピレーションになっている。私も若い頃に、阿刀田高の「ギリシャ神話を知っていますか」を読んで感銘を受けた記憶がある。 また、その昔東京でサラリーマンをしていたが、当時毎月のように出席した結婚式で必ず誰かが歌っていた「愛はかげろうのように/シャーリーン」という歌の歌詞に「I've been to Nice and the Isle of Greece, … I moved like Harlow in Monte Carlo 」とある。それが突如「ニースとモナコに行っても、まだギリシャの島々には行ってないでしょう」と聞こえ始めたのだ(笑)。ギリシャが私たちを呼んでいる! さて、例の如く昨夜は遅くまで演奏をしていたので非常に眠いが、頑張って起きて荷造りをし、夕刻にJFKに着く。無事にチャックイン。フライトは午後5時28分発、翌朝10時にアテネ到着。ロンドンもパリもマドリッドを超えて10時間強のフライトだ。さすがに遠い。 映画を3本鑑賞、多少の睡眠は確保したものの朦朧とする頭のまま、朝のアテネ空港に到着。タラップを降りると、いきなり険しい岩の山と灼熱の太陽が出迎えてくれた。異国情緒あふれる小さな空港は観光客でごった返していたが、何とかレンタカー屋を見つけて、お決まりの一番安いマニュアル5段変速の車をピックしてアテネの市街をめがけて出発。 実は、機内で下調べをサボってしまって、車をどこに向けたら良いのかよくわかっていない。が、Agoraというものがギリシャのポリス国家の中心地であることを思い出し、それをGPSにセット。運悪くアテネの朝の渋滞とかぶってしまったが、それでは車は街中に入り、雑踏の中にほんの小さな駐車可能なスペースを見つけて滑り込ませた。奇跡だ。飛行機を降りて1時間以内に私たちはアテネの観光名所のど真ん中にいた。 Rick Stevensのビデオで観たとおりのおしゃれなストリートだ。となると彼が食べたストリートフードGyroを食べたい。今まで観てきたヨーロッパとあまりにも違う異国情緒に戸惑いながらも、Gyroのスタンドを探す。あった!ひょっとしたらビデオで観たものと同じところかもしれない。優しいお兄さんが、窓辺でくるくる回る棒にさした肉を切ってピタに包んでくれた。ヨーグルトを忘れない。美味い。安い。気温が非常に暑いのでどこか座ってゆっくりしたいところだが、空腹には勝てない。立ったままギリシャのストリートフードを平らげた。 車は暫く置いておけそうなので、そのまま歩いてみた。いきなりアクロポリスが丘の上に建つ。絶景だ。帽子、シャツ、国旗、サンダルと土産物屋が並ぶ界隈に古いレースの店がある。ここはレースが有名だったかも。早速お土産にワインボトルカバーを買う。おしゃれな近代的なストリートの中に、場違いに見える古い教会がある。聞きしに勝るギリシャ正教の教会だ。独自の荘厳さがある。 それにしても暑い。気温は100度を超えているであろう。徹夜明けでNYから着いたばかりの身には堪えるので、再び車に乗ってホテルに向かうことにした。エキゾチックなギリシャ文字で書かれた住所をGoogleMapに切り貼りして、繁華街から30分ほど離れた住宅街のアパートに着く。最近増えてきたアパートホテルで、黒いショーツに白いランニングシャツを着たえらい綺麗な男性と全く同じ格好をした”Friend”の男性二人が、ミルクからコーヒーの粉から全て揃った偉く綺麗なアパートを案内してくれた。とても快適なアパートだが、何せ暑い。電気代のことは申し訳ないが、二つの部屋のそれぞれのエアコンを常時オンにさせてもらった。 ベッドに横たわると長い1日の疲れが出てきて急に眠くなった。が、シャワーを浴びて夕方6時でも燦々と輝く灼熱のアテネに車で出かけることにした。さすが、夕刻ともなると勤め帰りの人たちのバイクで迷路のような街は渋滞していた。おしゃれなドレスを着たギリシャ美人がヘルメットをかぶってバイクに乗っている様はアメリカには無い。 なんとか路地に車を停めてアクロポリスを拝みながら丘を登った。オリーブの木が繁り、その向こうにアテネの街並みがちょうど夕日を浴びてオレンジ色に見える。運悪く8時、アクロポリスは8時に閉まるのだ。仕方ない、明日来よう。周りに適当なレストランが無いので、とりあえずアパートに戻る。アパートの周りはごく普通の住宅街で、近くに踏切があり小田急線沿線のような景色である。ローカルの人が行くピザ屋でテークアウト。 こうして私たちの二週間のギリシャ旅行が始まった。 (続く) |
第2話 灼熱のアクロポリス |
旅で一番しんどいのは初日の夜かもしれない。やはり眠れない。時差ぼけに加えてこの暑さ、友人からアテネは熱波の警報が出ていると知らされた。寝つかれないまま夜が明けてきてしまった。これ以上の努力は無駄なので諦めて7時早々にベッドから起き上がる。備え付けのコーヒーを入れて、オーナーから教えてもらった近くのスーパーに出かける。たった3分の距離だが、暑さで歩くのがとてもしんどい。倉庫かと思うようなビルの中におしゃれ度ゼロの店が入っていた。店の品揃えはまあまあで、珍しい品が並ぶ良い感じのスーパーであった。さすが本場、ヨーグルトは充実しており、野菜も陽に浴びてすくすくと育ったであろう立派なものが並んでいる。ハム、野菜、パンや、水やジュースを買う。出口付近の偉くセンスの悪いショーウインドウとベーカリーがあったので、パンを買ったらおばさんが私たちにお菓子をプレゼントしてくれた。ここの人は無愛想に見えるが実は大層親切であるようだ。女性は皆大変な美形でギリシャ彫刻のような顔立ちをして、それを意識したメイクをしている。このギリシャ女性がそのまま彫刻になったのかはわからないが、ギリシャ系アメリカ人のジェニファー・アニンストンを代表にギリシャには独自の美があるように思う。 さて、昨日時間切れで行けなかったアクロポリスに朝食を済ませてから出かけて行く。偉くごった返してエジプトのカイロを彷彿させる街を抜け、オリンピックの会場を横目になんとかついたアクロポリスであるが、あまりの高温で正午で閉鎖されていた。確かに一旦丘を登り始めたら木陰も水もない。その時の手元のiPhoneは104Fをさしていた。昨日に引き続きアクロポリスには縁がない。明日は朝早くにミコノスにフェリーで出かけるので、島巡りが終わって帰ってくる最後の日にもう一度チャンスがある。仕方ないので隣にあるアクロポリス考古学博物館に入ることにした。が、大正解であった。空調の効いた館内は非常に快適で、おびただしい数の彫刻や調度品が並べられており、古代のギリシャに思いを馳せることができた。超目玉はアクロポリスの6人の乙女たちの巨像である。紀元前6世紀、クレーンもブルドーザーもない時代にこれだけの規模の石の建造物が建てられること自体驚きであるが、もっと驚くのが石に刻まれた人々の表情の豊かさである。乙女の後ろ姿の結った髪はどうだ。ヨーロッパの中世の絵画はことごとく下手くそであるが、何故それよりも昔にこれだけの芸術力があったのであろう。他にも、有名なSphynx of Naxos、先が尖った壺、表情豊かな女性たち、コミカルで力強い男性たち、古代ギリシャの人々の技術力と芸術センスに圧倒された。外気温104度で登ることのできないアクロポリスであったが、空調の効いた室内からガラス越しに見事に眺めることができた。ひょっとしたらこっちの方がいいのかも(笑)。 ミュージアムには付き物のカフェ、入らないはずがない。早速アクロポリスが一番よく見えるテーブルについてギリシャサンドイッチを注文。美味すぎ!見るからにギリシャ人とわかる女性ピアニストが生でピアノを奏でてくれた。職業柄音楽のスタイルには好みがあるので、聴くことよりも見ることに集中した(笑)。 紀元前のギリシャはポリス国家であった。皇帝が全ての国や地域を絶対的に治める帝国とは対照的に、ポリス国家とはそれぞれに分散した都市国家(ポリス)がお互いギリシャとしてのアイデンティティーを持ちつつ、時には戦争をし、時には講和をし、時には強調するという国家体制である。有名なところでは厳しい軍事教育で今も言葉に残ったスパルタ、木馬で有名なトロイ、ギリシャ神話の舞台としてあまりにも有名なクレタ、風の谷のナウシカのモデルとなった才色兼備の女王ナウシカが治めるスケリア(ホメロスが著したオデッセイに登場し、彼に惹かれながらも自国の発展を選ぶ姫様である)、その中でも盟主であったのがこのアテネであった。戦争中もわざわざ停戦をしてアテネに集まりオリンピックの競技をしたということがギリシャの国の体なのだ。 今でこそ、5大正教の一つであるギリシャ正教を信奉するキリスト教国家であるが、6世紀のローマの支配以前は、キリスト教ではない多神教と、高度に発達した文明を持つ独立国であったのだ。この失われた神殿、石に刻まれた情緒あふれる人々、キリスト教がもたらしたものは一体何だったのだろうか。これはもう少し研究してみよう。 ミュージアムを出ると異常な高温が襲ってきた。そぞろ歩きをする場合ではない。アクロポリスに登り損ねたが、この博物館で足るを知った。短いアテネ滞在はこれで終わり。明日からミコノス、サントリーニ、クレタの島巡りだ。 (続く) |
第3話 エーゲ海への船出 |
まだ時差ぼけが残っているが頑張って暗いうちに起きた。今日はアテネに別れを告げ、フェリーで車ごとミコノス島に行く。フェリーに乗る事自体は初めてではないが、ギリシャなどという異国の地では何故か緊張してしまう。ゲート番号も登場時間もチケットには港の名前意外何も書いていないので、とりあえず早めに港に行くことにした。しかも、今回はアテネの主要港Piraeusではなく、半島の反対側にあるRafinaである。高速と一般道をかなり道を間違えながら(GPSのアルゴリズムのせいだ!)なんとか着いた。が、早く着きすぎた(笑)。まだ誰もいない。とりあえずたった一軒開いているカフェでクロワッサンとハム入りのパンを買う。美味い!時間がたっぷりあるので、車を停めてハーバーを歩いた。大型船が船尾(頭)をぽっかりと開けて白み始めた空をバックに並ぶ様は壮大だ。明け方の海がこれほど綺麗だとは。車が現れ始めたので係員に指示された場所に車を停めて車内で搭乗を待つ。自分の番が来た。車を動かしてタラップを登って乗船。ミコノスはこのフェリーの最終目的地のようで、札をかけられかなりの奥に押し込まれた。荷物を持ってデッキに上がる。4時間20分の船旅、ギリシャの島巡りの始まりだ! ここはエーゲ海なのだ。長い間、地中海に行くことが憧れであったが、その夢が叶って以来ちらほら出てきていたのがこのエーゲ海だ。昔ポールモーリア・グランド・オーケストラに「エーゲ海の真珠」なる楽曲があった。 船は巨大で室内には様々な形の部屋、カフェ、土産物屋まであって非常に居心地が良さそうなのだが、エーゲ海を窓越しに見るのは勿体なさすぎるので、早速デッキに出る。ちょうど夜が明ける時間で、山から登ってくる真っ赤な太陽が崖の上に建つ白亜の教会を照らす。ギリシャの象徴的な光景だ。 初めて見るエーゲ海は絶景だ。地中海の端に位置し、キクラデス諸島(Cyclade)と呼ばれる33個のギリシャの島々が点在しているこの海は、大西洋などの大海とは異なる鏡のように静かな水面に、島が次から次へ現れる。大きなものから小さなもの、街が見えるものから、神々しい山が連なるものまで様々だ。どの島も建物は白く塗られ、青い海に色を添える。これがそのままギリシャの国旗の色になったのだろう。 風が吹き抜ける海の上は暑くとも本当に快適だ。アテネの熱波から海に逃げることができた安堵感を感じる。 出航からほぼ1時間、吹きさらしのデッキから海や島々を見ていただが、4時間の船旅なので中で休憩することにした。かなり混んでいたがなんとか椅子を見つけて、一通りのドリンクを飲んだらウトウトとしてしまった。今朝は4時起きだったのだ。 最後の1時間はデッキに戻ることにした。やはり景色がみたい。船はTinosの港に立ち寄った。まるで宝石のように綺麗な島であった。アテネに住んでいる友人はこの島が美しいと言っていた。来年行きますと返事しながら、一回の旅で島を三つ回るとしたら、33個の島を回るのに11年かかるという計算が成り立つ。 4時間ちょっとの航行の末ミコノスに着く。急いで荷物をまとめて船底に降り、車を探し、車内で待機する。しばらく待って前が動き、狭い通路を運転して眩い太陽の中ミコノスに上陸した。上陸という言葉がサマになる。 港の賑やかなこと賑やかなこと。陽に焼けた大勢の人々の雑踏を車で抜けて島の公道に出る。とりあえずお腹が空いたので、どこかでギリシャのレストランでランチを取りたいのだが、車が停められない。仕方なく車が停められたアメリカンなカフェでランチ。面倒臭いのでパスタ、グリークサラダ、ピタを頼む。案の定、店内はブリティッシュとアメリカ英語で溢れていたが、港が一望できて素晴らしい。Virginを先頭に超巨大なクルーズ船が三、四隻停泊し、着飾った人たちが小ボートで上陸してくる様はパラダイスといえよう。 素晴らしいことに私たちには車がある。したがってホテルは静かな島の反対側に予約してある。おしゃれな繁華街を横目に、車は山に登り、畑なのか荒地なのかよくわからない、石垣の並ぶ乾燥した大地を30分ほど走った。突如、真っ青な海が広がる。そこに私たちが3泊するビラがある。ここのホテルはどこも高い。ビラとなるとかなりするものだが、私たちはいつも上手いことやる。白い壁と青い屋根のビラに、まるで使用人の詰所のような一室を安く借りた。確かに部屋は狭いし、お世辞にも綺麗とは言えないが、窓を開けると真っ青な海が広がり、心地よい風が吹き抜ける。それで良いのだ! ビーチは目の前で、坂を降りて1分。白い砂のビーチには程よい数の人がいた。水の温度、透明度、ビーチへのアクセス、人々、エキゾチックな景色、何をとってもここは最高のビーチで、フレンチ・リベエラより上かもしれない。砂地で焼けると海に飛び込む。その気持ち良さ。 ミコノス最高! (続く) |
第4話 ミコノスのシャレード |
朝4時に起きてフェリーで4時間半かけて、アテネからミコノスにやって来て、ホテルにチェックインするや否やビーチに出かけ、びっくりするほどの透明度の海に飛び込んでひたすらビーチタイムを満喫。今日はなんとも長い1日であった。が、ミコノスの初日はこれでは終わらない。それぞれに特徴のあるギリシャの島々の中で、ナイトライフが特に有名なこのミコノスに来たのだ。ホテルに居てどうする。早速シャワーを浴びて服を着替え、夜の街へ繰り出す。 夜といってもまだ明るい。燦々と注ぐ太陽に照らされた海、白い建物、赤茶けた大地、写真で見たギリシャの光景が目の前に広がる。信仰心が厚いのであろう、随所に小さな白い教会が見える。あまりにも、エキゾチックで美しいので、車を停めて写真を撮ってみた。 ダウンタウンに近づく。丘の上から見る夕方の海の景色は絶景で、どこかに車を停めて写真を撮りたくなるのだが、車が停められない。最初に着いたフェリーポートの駐車場にダブル、いやトリプルパークをする。そこから、繁華街に向けて海沿いの通路を歩く。素晴らしい景色だ!傾き始めたオレンジの光を受けた白い建物、おそろしくセンスの良い異国情緒あふれる調度品、着飾った美しい男女、風景に溶け込むギリシャ正教会、今にでも飛び込みたくなるレストラン、見せたがりの人が粘るビーチ、この景色はどうだ。 それほど昔でもない頃、ここは漁師たちの漁港であったはずだ。海辺には昔魚を洗うのに使ったであろう石造りの台が見事に残っている。その下で猫が幸せそうに寝ている姿がなんとも言えない。 ギリシャは料理が美味しいことは知っている。アテネでは良いレストランに入る機会がなかったので、今日はギリシャで初めてきちんとしたレストランに入り、これぞギリシャという料理を食べるつもりだ。あまり食にはこだわらない私に代わってレストラン選びに抜群な才能を持つのが細君である。何やら目立たない看板を見つけ、そこからメインストリートを外れた奥にある良さげなレストランを見つけてくれた。奥の細い路地、しかもギリシャ正教の何やら怪しい店(日本でいうなら仏壇仏具店)の裏にある。が、細君に感謝。本物だった。しっかりとしたグリルの前で、わざわざその日獲れたであろう魚を冷蔵庫を開けて見せてくれた。そのレストラン、Fish Tavern Kounelas Mykonosと言う。うさぎが魚を釣るロゴが可愛い。kounéliはギリシャ語でうさぎの意味だと早速FBでギリシャ人の友達が教えてくれた。店内の雰囲気もサービスも他のお客さんも本当に上品で、最後は無料で食後酒とデザートをつけてくれた。生涯で入ったレストランで一位二位を争うであろう。Kounelas本当にありがとう! 最高の魚介類料理で満足しきった私たちであるが、夜はまだ終わらない。店を出るとすっかり暗くなっいたが、海辺の白塗りの建物が並ぶ肩の触れ合うような狭い路地に魅惑的なショーウィンドウが店を広げ、そこを最高にお洒落した男女が闊歩していた。ジャニス・イアンのAT SEVENTEENという歌に出てくる”charades of youth”という言葉が思い浮かぶ。 年甲斐もなくそのシャレードに参加していると、サンダル屋が目に留まった。かつて愛用したがもう代わりがなくなったローマンサンダルが見つかるかも知れない。店に入るとかなりの品揃えで、若い女性が親切に試着させてくれた。拘って沢山のサンダルを試した結果、なかなかのものを見つけ、女性の父親と思われる男性が私の足に合うように穴を開けてくれた。細君は、ソワレ用のサンダルを買い、二人とも満足。Made in Mykonosが付加価値を付ける。店は沢山の観光客で賑わっていた。そう、夏のドレスアップにお洒落なサンダルは必需品なのだ。 ドレスアップ?ドレスダウン?私をギリシャの旅に誘ったシャーリーンの「愛はかげろうのように」に”I moved like Harlow in Monte Carlo, and showed 'em what I've got”とある。Jean Harlowとは30年代に活躍した当時のセックスシンボル、今で言うと誰だろうMargot Robbie?(笑)。ここに集う女性たちは皆、ハーローのように闊歩して持っているものを見せてくれた。ふと海を見ると、巨大なクルーズ船が狭い入り江に巨大な影を落とす。ヨーロッパ中から集まった美しい男女のシャレードがミコノスの夜を染める。 あまりの人の多さと、喧騒と、迷路で車に辿り着くのに相当時間がかかり、やっと乗った車も渋滞でなかなか進まない。ホテルに戻ったのは深夜であった。朝4時に起きてアテネからやって来たなんとも長い1日であった。ベッドに入った瞬間に深い眠りに落ちた。 (続く) |
第5話 ミコノス人の密かな愉しみ |
目が覚めた。波の音がする。窓を開けると、昨夜のシャレードが幻想であったかのように眩しい太陽が真っ青な海と白い砂を照らしている。朝食を買いに近くのスーパーに繰り出す。と言っても周りにはほとんど店が無い。車で暫し走って最初に見つけた集落に良さげな店を見つけたので立ち寄ってみる。正解だ。美味しそうなコーヒー屋とパン屋が同居している。隣の肉屋では、なんと子豚の丸焼きが売っている。顔がそのまま残っていて、私たちには超グロい。ここの人たちは優しそうでかなりワイルドだと思う。パンも一切れがかなり大きくて、ハムも油もふんだんに入っている。洗練されているかどうかは別として、私好みだ。 早速食料を持ってビーチに出た。最高。相変わらず水はクリスタルクリアで、遠くにはクルーザー、ヨットが浮かび、白い岩山が真っ青な空に聳え立つ。ここはミコノスの港からは距離があるので、静かで人が少ない。ギリシャの人が多い。いきなり、「エノキ食べ」と聞こえてきた。ギリシャ語の空耳アワーなんだろう。太陽は非常に強いのでしばらくするとやけやけになり、透き通った水に飛び込む。それを何度ともなく繰り返してヨーロッパで一番のビーチを堪能した。 部屋が近いのは嬉しい。1分歩いて部屋に戻り、シャワーを浴びて水着を干す。白い建物にところどころ穴が掘ってある。おそらく風を通すためだろう。焼けた肌に風がかすめて気持ち良い。 さて、ミコノスの極上のビーチとギリシャの島々で最高のランクに位置するナイトライフを経験したが、まだ斎藤寝具(サイトシーイング)が残っている。ガイドブックを見ると海辺に綺麗な白い教会が建ち、ペリカンが写っている。昨夜思い切り遊んだ夜の街に今度は昼間から出かけることにした。昨夜と同じ駐車場に車を停めて歩く。波がかかってしまうくらい海沿いにJackieO'という名のバーがあった。Jacqueline Kennedy Onassis、第35代米国大統領J.F. Kenndyのファーストレディで、大統領暗殺後に再婚したのがギリシャの海運王Aristotle Onassis。彼女自身もNYで生まれたギリシャ系アメリカ人で、Onassisがパトロンとなったオペラ歌手マリア・カラスも同じくNYで生まれたギリシャ系アメリカ人。昨年崩御したエリザベス2世の夫、エディンバラ公は廃位されたギリシャ皇室のプリンスであった。何気に世界のセレブを排出している。 そのまま海沿いの道を歩くと、間も無く大きな白い教会、Panagia Paraportianiが見えてきた。15世紀から建てられ完成したのは17世紀とのこと。真っ白に塗られた岩山のような風采を見て早速ソフトクリームだと言った友人がいたが、見えない事もない。教会の隣には廃墟となった石の遺構があり、沢山の古い写真が飾ってある。一つ一つ丁寧に見て回った。オナシスやマリヤカラスとは程遠いが、質素だが幸せそうな漁村の人たちの姿がそこにあった。 教会を見終わって、昨夜そぞろ歩きした迷路のような街を再び歩き出す。ペリカンを見に行かねばならない。途中でレースを売る店があった。レースはアテネで買っていたのだが、ここはただの土産物屋ではなさそうなので、冷やかしで入ってみた。直感は当たった。この店、15歳の時からレースを織り続けているという何とも素敵なおばあさんの店で、日本でも紹介されたこともあるそうだ。娘さんであろう、中年の女性が通訳をしてくれるのだが、この凛と座ったおばあさんのこの品格はどうだ!思わず友人へのお土産と私たちの記念品を買い足した。使うと言うよりは額に入れて飾って置きたい品だ。これはヴェネチアの話であるが、漁師の奥さんは普段は漁で使う網の制作や修理に従事しているが、漁のシーズンが終わるとそのスキルを活かしてレースを編むことで生計を立てていたらしい。聞いてみたら、ここもそうだった。 白と青で塗られたこの路地、それだけで絵になるのに、そこを歩く人のこのおしゃれ度はどうだろう。日に焼けた肌に黒い髪、ハッキリとした鼻筋とこの服装。モデルが撮影をしている訳ではない。これが普通の人々なのだ。ギリシャ彫刻で有名な人々には確固たる美学が存在するようだ。 ペリカンは見つからない。人に聞いてみてもよくわからない。なので諦めることにして、今日最後に目的地、丘の上の風車をめがけて歩いた。これは見落とすはずはない。ちょうど傾きかけた頃の陽を見事に反射して輝く海をバックに並ぶ5基の風車は圧巻だ。写真を撮りまくった。ドンキホーテとサンチョパンサを思い出した。その昔はロバで運んだ小麦をこの風車の動力で挽いていたに違いない。 さて、歩き回って疲れたので、風車の袂にあるカフェで一服することにした。扇風機が回る表の最も涼しいテーブルに着いてグリークコーヒーとギリシャのデザートを食べる。ハチミツたっぷりのこのデザート、コッテリした強烈な甘さだが、疲れている私には非常に美味しい。思わずウェイトレスにこれ美味しいと言うと、「私のお父さんが作ったのよ」と言う。親父さんに言ったら、「美味いだろう。俺が作ったんだ。もっとあるから見せてやるぜ」って言うんで店の奥に入ったら、沢山の種類のデザートが並んでいた。父と娘でこのカフェをやっている。なんとも美しい光景だ。写真を撮らせていただいた。このデザートはBaklavaと言うらしい。FBに載せたら、早速スコットランド在住の学友から「コーヒーもバルカーバもトルコの物と瓜二つだ」とコメントをいただいた。彼女曰く、ギリシャはオスマン朝トルコから独立したからなのであった。食べ物が国の歴史を物語る。 初めてミコノスと言う名を知ったのは、京都での学生時代、祇園祭の宵宵山でアメリカ人のグループを鴨川沿いのビアガーデンに連れて行った時であった。そのビアガーデンは店内が白と青に塗られていてミコノスと言う名前がついていた。それからウン10年後に本当にミコノスにやってきて人生の蜜を吸った。そろそろ若者のシャレードが始まった。なんという華やかさだ。飲み込まれる前にホテルに戻ろう。 ミコノスありがとう! (続く) |
第6話 サントリーニへ |
3泊のミコノス滞在は素晴らしいの一言。美しいビーチ、美味しいシーフード、華やかなナイトライフ、情緒あふれる現地の人々、これは忘れられない。 さて、今日はフェリーで第二の島、このエーゲ海クルーズの目玉とも言えるサントリーニに出航する。朝は早めにフェリーポートに到着。人が続々と押しかけてきた。島巡りをする人たちは皆幸せそうな顔をしている。予想に反してほとんどの人は歩き、私たちのような車で乗船する人が少数派であった。係の人の指示に戸惑ったもののなんとか定位置に車を停めフェリーが来るのを待つ。今回は高速二艘船だ、こりゃ格好いい! この高速二艘船、外観もさることながら船内も超モダンで、ロビーにはF1のレーシングカーが飾ってあり、全席指定である。高速で航行するからであろう、デッキで座る訳には行かない。2時間の船旅であっという間にサントリーニの港についた。 車で下船すると港は大勢の人で混雑していた。サントリーニは火山の外輪山が海に沈んだ三日月型の島で平な土地がほとんど無い。フェリーポートも小さく、係員からとにかくポートから出るよう急かされた。まだ、心の準備ができていないまま、ローギアに入れないと登れないような急な山道をなんとか登った。山の頂上に尾根を道が走る。なんとワイナリーがある。あとで知ることになるのだが、ここは有名なワインの産地なのであった。 島のハズレに来るとどんどん道が狭くなり、最後はホテルのあるImerovigliという本当に小さな街の僅かな広場に車を駐めて細い道を150mほど歩く。ここは土地が無いのに世界的に人気なリゾート地なのでホテルが高い。私たちの人生のハイライトともなる旅なので、ケチらずいいホテルの一番安い部屋を予約した(笑)。宿の人は超親切で、モタモタしてなかなか到着しなかった私たちを外で待っていてくれた。部屋は狭いが、すぐそこにテラスがあり、そこからの景色にはぶったまげた。まさにこれがサントリーニ。外輪山が険しく弧を描く中に、さらなる島があり、海はこれ以上ないほどに真っ青である。岩肌にはぎっしりと白と青で塗られた小さな建物が並び、そこに強い太陽を反射して眩くひかる。チェックインして最初にやったことは、このホテルのプールに飛び込むことだった。プールからの景色がまたすごかった。二家族もいたら満員の狭いプールなのだが、3人の娘さんをつれた夫婦が入ってきた。フランス人であることはすぐにわかったが、何故か娘さんたちの会話に完璧なアメリカ英語が混ざる。なんとボストンに住むフランス人一家なのであった。私はバークリー音大を含めて7年もボストンにいたので、話があった。隣には、イタリア人の家族、旅の出会いは楽しい。 さて、熱った体をプールで鎮めると、早速夕方の街に出ていく。サントリーで最も重要な街はFiraという街で、外輪山の尾根にへばりつくように白い家が並んでいる。そこには有名な三つの鐘の教会とお洒落なダウンタウンがある。歩いて30分、良いところにホテルを取った。車で行くと楽だが、今確保した場所は、街の広場に奇跡的に見つけたものなので、今出ると帰りには見つけられなくなることは明白だ。綺麗に作られた遊歩道を歩くことにした。それに景色が観たい。 夕暮れのサントリーニは絶景。目指すは有名な三つの鐘の教会。丘の上に黄色い教会があり、その裏側に登ると、鐘を前景にサントリーニの壮大な景色が一望できる。サントリーニいやギリシャの島々の中で最もアイコニックなイメージである。大きなクルーズ船は思ったりよりも早く進むので、シャッターチャンスを逃しまくった。自ら感動しながら何枚も何枚もシャッターを切った。隣に同じキャノンのカメラで写真を撮っていた若い男性とカメラ談義が始まった。またしてもフランス人だった。風景をかなりアーティスティックに撮っているカメラマンで、見せてくれた作品は本当に素晴らしかった。何故か女性を3人連れている。紹介してもらったら、一人はお母さん、もう一人はフィアンセ、でもう一人はフィアンセの友達。さすがフランス。ホテルの部屋割りはどうなってんだろう(笑)。四人で一部屋でもおかしくないくらい仲の良い四人組であった。 帰り道の途中で、先ほど目をつけておいたレストラン、Anogiでディナー。白ワイン、パスタ、魚介類のリゾット、そしてデザートはギリシャの伝統的なオレンジケーキPortokalopita。ギリシャ料理は最高だ。待ち行列ができるほどの店で、予約をしていなかったので、快適なal frescoではなく室内であったが、全く問題ない。料理の美味しさに度肝を抜かれた。 満腹になって歩いてホテルに戻る。最初のフランス人家族と談笑する。「ここはフランス人が多いよ」と言う。世界から憧れるが誰をも憧れない(強いて言えば日本だ)フランス人は、どうやらギリシャには憧れていると思う。古代文明への礼賛なのだろう。マリーアントワネットの肖像画を描いて有名になった美貌の女流画家Élisabeth Vigée Le Brunも、自宅で妖艶にトーガを纏ってギリシャパーティーを行った。以前、フランスには毎年のように演奏に出かけた。ツアーの合間に呼ばれたあるパーティーがギリシャパーティーで、このオレンジケーキが出された。暑い夏に冷たく出されるこのケーキが美味しさが忘れられなくて自分でも作ってみた。縁とは奇なるものである。今もこうして出会う家族がフランス人なのだ。 明日は、ボルケーノ4時間ツアーに参加する。私たちのギリシャツアーは今まさにハイライトを迎えようろしている! (続く) |
第7話 サントリーニの活火山 |
サントリーニの初めての朝、ベランダから見る景色は昨日に引き続き絶景であった。改めてこの島は火山活動でできた外輪山だということを実感する。阿蘇山の草千里に海水が入ったようなものなのだ。 私たちは普段業者のツアーには参加しないのだが、昨日チェックインするときにお兄さんが教えてくれたこのツアーには非常に興味があって、早速申し込んでいた。なんでも、オールドポートから船に乗って真ん中の火山を見学し、そのあと火山の熱でできた温水ビーチに行くそうなのだ。白い水着はやめた方が良いと言われた。朝8時半にロビーでお兄さんからチケットを受け取って昨日も行ったFiraに向けて出発。 歩いて30分の距離だが、いちいち風景に感動し写真を撮って買い物までしていたら1時間はゆうにかかってしまう。Firaに着いたは良いが、そこからこの垂直の壁を下のオールドポートまで降りなければならない。が、救世主はFiniculare、ケーブルカーであった。巨大なクルーズ船と小さな船がまるで絵のように美し並ぶ港にほぼ垂直に降りていく様は感動ものだ。 下に降りると、幸せな観光客でごった返していた。このオールドポート、その名の通り昔は全ての船の発着場で、漁師も旅行者も使う島の玄関だったはずだ。切り立った崖には立派な礼拝堂が掘られている。昔の人々が祈りをもって島での生活を営んでいたのだろう。自分のツアーの出発場所を探して列に並ぶ。なんと超かっこいい木製の帆船であった。これは楽しそうだ。 ほぼ満席の船に乗り込むと、間髪入れずに出航。ジョージと言う素敵な女性がホストで、操縦席には舵を握る男性と小さな女の子がいる。彼女の旦那さんと娘さんの、ファミリービジネスなのであろう。なんとも微笑ましい。 30分もたたずに火山の島が近づいてきた。流れた溶岩がそのまま固まって冷えたときに割れた黒光りする岩が並ぶ。絶景!船着場は狭いので、数隻の船が並列に停まり、先に停った船を通って島に降りる。ここから火口まで緑なんて何も無い灼熱の石の道を歩く。暑い。汗ばみながら半ば息を切らして登ると火口らしき窪みが見えジョージが止まった。彼女が岩の間から音を立てて蒸気が上がり周りが硫黄で黄色くなっているところを見せてくれた。サントリーニは活火山なのだ!大学で考古学を先行している彼女によると、元々は一つの島であったが、紀元前1600年のミノア噴火で島の中心部が沈み、外輪山だけの三日月が残り、その火口が今私たちがいるこの小さな島なのだ。噴火で空高く登った火山灰で覆われ、2週間夜が、2年間冬が続いたそうだ。津波の高さは90mだったそうだ。 その話を聞いてロマンを掻き立てられたのは私だけではない。古代ギリシャの哲学者プラトンがその著作の中で、大西洋にアトランティスという大陸があったが、文明が栄えて傲慢になって神々の罰を受け、地震と津波で一昼夜にして海中に水没したと記した。ここがアトランティスだ!と言う論争が起きたり、はたまた旧約聖書の出エジプト記の海が割れる奇跡もここからきたのでは無いかという説もあるそうだ。 最後の活動は1950年で、噴煙で死傷者が出たらしい。もし今、活動が活発になれば即座に警報が出て、そうなるとサントリーニのみならずキクラデス諸島全域を二週間以内に退去しなければならないそうだ。 それにしても絶景だ。真っ黒な溶岩が冷えた岩、流れてきた滑らかな面と、冷えたときに割れたであろう亀裂、赤い石、奇妙な植物、そして海ごしに見える赤茶色の外輪山とそこにへばり付くように並ぶ白い家とそこにつながらジグザクな道、この世のものとは思えない。 すっかり感動していると下山する時間である。そこから船に再び乗り込む。船内はおしゃれで、バーまで付いていてアイスコーヒーなんかも作ってくれる。美味い! (続く) |
第8話 サントリーニのトライアスロン |
さて、サントリーニのツアーは続く。次は温水ビーチである。船で別の小さな島にいくと、赤茶けたビーチが陽に輝いている。そう、火山の熱で海水が温められて、そこに流れ出る鉱物で水や岩が赤茶に染まっているのだ。船は沖に停泊し、希望者は海に飛び込んでそこから100mほどを泳ぐ。ジョージのキューで、一人一人船から真っ青な海に飛び込む。船から海に飛び込むのは生まれて初めてかも。最初は冷たい海の水だが泳ぐにつれてだんだんと暖かくなり、岸に着く頃には風呂くらいの温度になる。泥の中に足をつけて立つことができた。しばらく奇妙な泥の中でくつろいだ後、船にまた戻る。もちろん自力で泳ぐ。また冷たい海に戻って船の梯子から乗船。NYの生活とはかけ離れたアドヴェンチャーであった。が、気づくと細君の白ビキニが茶色く染まっていた。ホテルのお兄ちゃんが言っていたのはこの事だったのか。もう遅い。が、そんなことを笑い飛ばすだけの素晴らしい冒険活劇であった。 なんだか英雄になった気持ちで、猛スピードで港に戻る船の風を体に浴びた。気がつくと隣にも同じような船が並走している。急に、MAMMA MIAのDancingQueenが頭になり始めた(笑)。 港につき、ジョージにお礼を言って、下船すると狭い港はケーブルカー待ちの人で身動きがとれない。とりあえず水を買って水分補給する。この列を炎天下で待つくらいだったら、歩いて登ろうと山道を登り始めたところに、ロバが待っていた!話は聞いていた。ママミアでも港からロバで登っていくシーンがある。しかも待ち行列はほとんどなくて、10ユーロ払えば間髪入れずに自分の番がくる。私のは白馬ならず白ロバであった。いやー、ロバの力は大したものだ。一馬力(ロバだからもう少し小さいか)は私の車の184分の1だが、私が重いカメラとレンズを持っていることなぞお構いなしに灼熱の太陽に照らされた石畳の道をグイグイと登る。登る途中の景色は素晴らしい!ロバたちは自分の役割を完全に理解していて、先導無しで道を登り、終点に着くとロバの列の最後尾に自分で並び頭を垂れる。下を向いた優しい顔にお礼を言って降りる。これは一生忘れないサントリーニの思い出になる。 さて、時刻は昼下がり、一番暑い時間である。歩いてやってきた遊歩道をまたホテルまで戻る。Firaの街の役場のような赤い綺麗なヴェネチア風の建物の横に、Volkan Cinemaなるものがある。何を上映しているかポスターを覗いてみると、MONはMAMMA MIA、TUEはMAMMA MIA、 WEDはMAMMA MIA…(中略)… SUNもMAMMA MIA、毎日MAMMA MIAなのであった(笑)。この勢いなら6月1日から10月30日まで全てMAMMA MIAなのであろう。が、先ほどの船の甲板で自然に思い出した映画だ。夕暮れの海を見ながら野外でMAMMA MIA鑑賞、それ以外に何があろう(笑)。 それにしても暑い。お腹も空いてきたし、何より冷たいものが飲みたい。そこに現れたのが、Traditional Cafe Iriniであった。Iriniとは、サントリーニの語源となった聖人の名前だ。英語で言うSaint Irene、ラテン語でいうSanta Irini、そこから転じてSantoriniとなったとギリシャ人の友人が教えてくれた。中世以前からベネチアの宣教者たちが入植した歴史のある島なのだ。グリークコーヒーに、マンゴージュースにパニーニ、がそれ以上にテラスから眼下に見える港、朝乗ったケーブルかー、船、崖っぷちの白い街、吹き抜ける風、愛想の良い店主、テーブルの上の鉢植え、庭の調度品、これら全てが時を忘れさせてくれる。 帰りは道に迷ってしまった。統一された白塗りの建物は見ていて美しいのだが、こういう時にはラビリンス(迷路)になってしまう。GoogleMapが頼りにならないので、とりあえずわかっている所まで戻る。 ホテルに近づいてきた。これで安心。近くに海に突き出した巨石がある。ホテルのお兄さんの話では簡単に歩いていけるとのこと。それなら海沿いを歩いてそれを見ながらホテルに戻ろう。というわけで海側の道に入ったら、そこもラビリンス。道は殆ど階段で、岩はいつまでたっても近くならない。灼熱の太陽は容赦無く私たちを照らし続ける。仕方ない、ゆっくりと記憶をたどりながら引き返した。 頑張って記憶にある所に戻ってきた。足が攣ってきた。まずい。2件目のカフェに入ってACの前に座って水をがぶ飲みした。やれやれ、30分で歩ける帰路に3時間かかってしまった。ホテルに戻ると黄金の黄昏アワーになっていて、あちこちでモデルの撮影が始まっていた。ウェディングのカップルもいれば、芸能人か、金色のドレスをきてメークとカメラのクルーを率いての撮影もある。Vogueとかそんなんなんだろう。 夕食は先ほど広場のスーパーで買ったオリーブの実とトマトとヨーグルトで細君が作ってくれたサンドイッチをVogueの撮影会が行われるほどの景色を見ながらホテルのバルコニーで食べる。素材が良いのでこんなシンプルな夕食が美味しい。段々と暗くなるにつれ海の色が変わり、サントリーニの最北端の街、Oiaの灯が瞬き始めた。歩いて1時間ほどだという。私たちなら6時間かかるだろう(笑)。隣のフランス人家族に、今日のツアーの話をしたら、興味津々で明日行くとの事。 普段はNYで青白いピアニストとファイナンシャルアドバイザーをしている私たちだが、今日は違った。船から海に飛び込んで泳いだ、山を登った、そしてロバに乗った!トライアスロンとはこのことだ(笑)! (続く) |
第9話 サントリーニの「がんばる兄弟」 |
サントリーニの2回目の朝、昨日の私たちの武勇伝を聞いて、隣のフランス人家族も同じツアーに出かけることにしたらしいが、奥さんはビーサンしか持っていないという。サンダルで挫折してた人が昨日いたと伝えた。 さて、今日は車で出かけることにした。サントリーニにも古代文明があり、その歴史の上に今がある。考古学博物館はチェックしておきたい。昨日まで毎日歩いて出かけていたFiraの街を車で抜けて進むと、溶岩が流れてできたであろうなだからか土地が続いた。さらに進むと島の反対側の海に出る。頑張って駐車場を見つけて考古学博物館に行くと、なんと暑さのためにたった今クローズすると係の女性が張り紙を貼っていた。アテネのアクロポリスに続いて残念ではあるが、私のモットーは「捨てる神あれば拾う神あり」(笑)、そこにあるビーチに出ることにした。なんと、これはガイドブックで見た黒砂ビーチでは無いか!そうなのだ、火山活動がある海辺には黒砂ビーチがある。早速水着に着替え、即席ビーチタイムが始まった。サンダルが無いので足の裏が痛いが、水に浮く時間を長く取って調整した。昨日の疲れが出たのか黒砂の上ではまったりした。 最近はSNSを通じてほぼリアルタイムで世界中の人からアドバイスが入る。地元NYのピアニストの友人から届いた「サントリーニのAssyrtikoワインを飲むべし」とのメッセージに素直に反応し、Santorini Wine Museum (Koutsogiannopoulos George)に出かけた。入り口に葡萄畑が広がり、使われなくなった歴史的な道具が置いてある。そういえば、ホテルの近くにも葡萄を潰す機械が置いてあった。やはりここはワインの島なのだ。このワイナリーは1870年に、Grigorios and Dimitrios Koutsogiannopoulosという兄弟がたまたま漂流し、そこにワインの可能性を見つけ、二人でサントリーニのワイン産業を産んで以来5代目が次ぐ歴史的なワイナリーなのであった。火山灰の積もる何もない島であったが、既に入植していたヴェネチアの修道院の簿記を手伝う代わりに生活の助けを借りながら二人は葡萄の独自の栽培方法からワインの製造方法までを編み出した。博物館にはかなり立派な展示があり、当時の模様を知ることができる。ヘッドセットの解説には日本語も用意されているが、この創立者の二人を「がんばる兄弟」と訳しているのには笑った。ギリシャ語の原本は知らないが、「野心家の」とか「先見の明がある」とかもう少し良い訳はなかったのか。「がんばる兄弟」すっかり気に入ってしまった。 その「がんばる兄弟」、楽をしないようにオフィスの椅子には背もたれがない(私もピアノの椅子を使っているので背もたれないですけど)とか、昔は女の子は外出が禁止されていて、収穫の時にだけ外に出て手伝うことができ、そこで出会った若者と結婚する、等、過酷な暮らしの中にも面白いエピソードに溢れていた。「がんばる兄弟」のおかげで、火山灰が積もった厳しい条件の元に作られるワインは重宝され、こうしてサントリー二ワインは世界的に有名なブランドになったのだ。 さて、一通りの見学をするとワイナリーのお決まり、テイスティングである。私たちのチケットには4種類のワインが含まれていて、カウンターに座ると実にホスピタリティに満ちた素敵な女性が一つ一つ説明して、しばらく夫婦で相談する時間をおいて適時にワインをついでくれる。やはり最初の二つは友人おすすめのAssyrtikoであった。彼女の説明で、これはムスカに合うという。ムスカって聞いたことがある、何だっけと尋ねると、ギリシャの代表的料理だと彼女が言う。ガーン、まだ食べていない。早速今夜食べることに決めて、その場から電話して、一昨日行ったAnogiを今度はきちんと予約した。最後のワインはデザートワインで、チョコレートを食べてから飲む。なるほど。 いやー、こりゃ楽しい。早速数本買って車に積んだ、NYで友人を招待してパーティーを開いた時に大活躍するであろう。 さて、陽が沈む前にホテルに戻って、駐車スポットが無くなる前に何とか場所を見つけて小さなFiatPandaを駐めた。ホテルの前では、お決まりの撮影会が始まった。私も写りたくてカメラを持ってポーズした(笑)。 予約した時間にレストランAnogiに行った。何と私たちのことを覚えてくれている(アジア系は他にはゼロなので当たり前か)。今度は願ったりのal frescoであった。ギリシャのレストランには決まって猫がいる。今回も、テーブルの下や床の上で堂々と遊んでいる。さて、ムスカを注文。肉料理だと思っていたが、ここはシーフードであった。美味い。それと、ギリシャに行く前から写真で見まくっているタコの足。とうとう頼む時が来た。大きな足が一本そのまま皿の上に乗っていてナイフで切って順番に食べる。美味!これはアメリカには無い。明日はまたフェリーに乗って移動、と言うことはこれが最後の晩餐だ。たくさんの料理を注文してサントリーニ最後の夜を祝った。 サントリーニ最高。火山とワイン、青い海と白い家、美味しい料理、そしてロバ、絵に描いたギリシャがここにある。 (続く) |
第10話 サントリーニのヴェネチア修道院 |
旅のプランを立てる時、行く先々の面白さ度によって出発時間を決める。サントリーニが別格であることを知っていた私は、敢えて朝イチの出発ではなく午後イチの出発にしておいた。サントリーニの最後の朝をゆっくりと味わいたい。クレタには夕方着けば良い。 まずはホテルをチェックアウト。良い所だった。次回があるならまた泊まりたい。スタッフの男性が一人、車まで荷物を持ってくれた。助かる。車に荷物を乗せたが、車はそこにそのまま置いておいて、これから近くのヴェネチアの砦を観に行く。そう、ホテルに着いた時から眺めていたあの岩山だ。Skaros Rockと言い簡単に歩いて行けるそうだ。サントリーニ最後の朝に登ってみることにした。 この岩の歴史は古く、13世紀にこの地を治めるビザンチン帝国がヴェネチア人の建築家Giacomo Barozziに砦を築くよう要請したことが始まりで、現地語ではLa Roka(The Rock)、その名のとおり、紀元前68,000年にできた火山活動によって作られて大きな岩である。古い絵で見ると岩の周りにたくさんの建物が並び、かなりの集落になっていたことがわかる。中世よりヴェネチアとオスマン帝国との奪い合いが続き、最終的にはオスマン帝国のものになり、ギリシャがオスマン帝国から独立した。その間、チュニジアの海賊の脅威もあり、さらには度々の火山活動で、結局このヴェネチアの砦は終わりを告げ、本土のImerovigliとFiraに吸収されていった。一旦低くまで降りて広場に来て、そこから岩への登山が始まる。二日目に行った火山の島、青い海も、そこに浮かぶ大型クルーズ船もよく見える。海岸は遥か下に見える。教会っぽい建物の遺構はヴェネチア人によるものであろう。私たちは随分と体力がついたので、先端まで歩いて行ってみた。そこにも白い教会がある。しばし、電気も水道のない中世にここで集落を作って暮らした人々の暮らしはどうだったのだろうと思いに耽ってみた。この美しい景色とは裏腹の厳しい生活、楽しかったのか、苦しかったのか。こんな所に教会を作るだけあって、それは祈るような生活であったのだろうか。 誰が簡単に行けると言ったのだ!ゆうに2時間はかかった。車を駐めた広場までたどり着いた時には汗だくで息も絶え絶えであった。早速水とジュースとアイスクリームを買い、広場のベンチに座って休憩。 さて、これでホテルのあるこの小さな集落Imerovigliを出て、フェリーの港に向かう。港に車を走らせたが、思ったよりも時間があるし、お腹が空いてきたので大きなベイカリーに入る。ギリシャはパンとコーヒーとデザートに手を抜かない。私の好きそうなハムを挟んで焼いたパンが沢山ある。それだけではない、ギリシャのデザートも充実していて糸を巻いたような甘いケーキから緑の小粒なものからランチにしてはお腹がいっぱいになった。 さて、ランチを食べていると元気が出てきたのか、あらぬ欲がでた。昨日のワイン博物館の近くに古いヴェネチアの修道院がある。細君を説得して最後の1時間で行ってみる事にした。急いで運転して何とか着いた。思ったよりも大きな集落で幼稚園の前に車を駐めて兎に角丘を登った。登るにつれ道が本当に狭くなり綺麗だが不思議な空間に入って行った。道はもう真っ直ぐではない。苦労した挙句、古いヴェネチアの修道院を見つけた。中世からの建物が残っているのだろう。一生懸命に写真を撮った。時間がないので急いで車に戻る。が、車にたどり着けない。下山すると何故か全く違う風景だ。フェリーの時間が迫る。仕方ない、現地の人に幼稚園はどこか尋ねて、それでも随分と歩いてやっと見つけた。やばい。急いで港に向かう。何とかフェリーに間に合いそうだ。よかった。 (続く) |
第11話 サントリーニからクレタ島へ |
サントリーの神々しい外輪山からほぼ垂直の道をジグザグに降りるとそこに小さな港がある。相変わらず人が多い。が、自分の船が見つからない。仕方ないので、自分は車で待って、細君にチケットオフィスに行ってもらった。が、中々戻ってこない。そうしてるうちに巨大な船が到着して中からわんさか人が降りてきた。係員から車を退かせと叫ばれる。困った。人の波が引く頃に細君が笑顔で戻ってきた。なんと、私が予約した船は4月にもう出てしまっているとのこと(!?)。3月にチケットを予約した時に、月を間違えて4月で取ってしまっていたのだ。幸いなことにクレタに行く便がまだ一本あり、2時間遅れで無事今日中にクレタに着けることになった。ほっとした。 が、乗船でまた事故が起こった。フェリーに乗り込むタラップで前の車が減速しこちらも一時停車、その際にエンストしてもう登れなくなった。係員の怒号が聞こえ、指示通りもう一度タラップを降りて思い切りアクセルを蒸して登り直した。やれやれ。後日、ハーレムのギグで一緒のミュージシャンから何があったんだい?って聞かれた。FBのビデオ、みんな観てるじゃん。 疲れが溜まっていたのだろう。高速フェリーのシートに座った瞬間、寝てしまった。2時間の航海、目を覚ましたらとてもリフレッシュ出来ていて、ソフトクリームを買いに行き、そのまま甲板に出てみた。クレタ島が見えてきた。クレタ島はもうキクラデス諸島ではない。かなり赤道が近くてアフリカとも交易があったと思う。サントリーニに火山警報が出たらみんなここに逃げてくれのだなと思った。 が、夕暮れの美しいオレンジ色の光に染まったクレタ島の港は、青い海と白い建物のギリシャのイメージとは全く異なる巨大な工業港であった。大きな島だから仕方ないのか。車で今回のギリシャの島巡り3度目の下船をして、目指すアパートに行く。交通の便を考えて、港からすぐ近くに場所を選んでおいた。GPSで近づくと、車の修理屋さんに来た。不思議に思って周りを見渡していると修理屋のおじさんが出てきた「Elini's Apartment?」と聞いてきた。そうだと答えると彼がアパートのオーナーなのであった。Goerge(ギリシャの人は男も女も皆ジョージ?)というCPRから車の修理から何でもできる逞しいギリシャ顔のおじさんが修理中の車の列の中に、私たちの駐車場を作ってくれ、彼の地下室に案内してくれた。なんとそこは偉く綺麗なアパートに改装されていて、空調も洗濯も調理も全て快適にこなすことができる。これは良い! 腹が減ったので、ジョージが教えてくれたレストランに歩いて向かう。痩せた猫が沢山いる(何故に、ここは猫がみんな太っていないのだろう)。飛行場が近くて時々轟音をたてて飛行機が発着する。そして路地を5分ほど歩くとそこに路上レストランがあった。バルデス?と聞くとそうだという。 夏のヨーロッパはal frescoが本当に気持ち良い。まだ青みを残す星空の下に下宿屋で使うような木の机のテーブルが並ぶ。ガタガタする。何故か外なのに暖炉がある。ウェーターは優しそうなお兄さん。注文は置いてある紙のリストをチェックする。が、どうだ。運ばれた料理、クレタ風サラダ、カラマリ、小魚の焼き魚のオリーブ漬け、パン、どれも絶品であった。さらに、デザートとスイカをただでつけてくれた。猫が遊ぶこの野外レストラン、地元の会社のパーティーが隣で行われ、皆偉く楽しそうである。そしてこの請求額。タイムスリップをして20年前に戻ったような気がする。 ミコノスからサントリー二に行く時に、あれほど素晴らしいミコノスの後にサントリーがつまらなかったらどうしようかという不安であった。が、着くや否やサントリーに魅了された。同じように、あれほど素晴らしいサントリーニの後にクレタがつまらなかったらどうしようかという不安があった。が、今日のこの料理とこの優しく楽しそうな人々、ひょっとしたらクレタは素晴らしいところかもしれない。 とても楽しい気分になって夜道を歩いてアパートに戻る。クレタ島に着いたぞ! (続く) |
第12話 ギリシャ神話の表舞台 |
クレタ島の朝。さすが改装したばかりのアパートは格別に気持ちが良い。よく眠れた。すっかり時差ボケはなくなってもう身体は現地化してしまった。 クレタ島は昨日までいたキクラデス諸島の外にある。より赤道に近くなり、アフリカは遠くない。ミコノス、サントリーニやその他の島々と違って非常に大きな島で、その面積は広島県に相当するらしい。地図で見るとギリシャ本土のペロポネソス半島と比べても遜色ない大きさである。それだけに古代からアテネにつぐ大きな影響力を持つ島であった。当然、ギリシャ神話の登場回数も多い。 真っ先に思い浮かぶのが、イカロス。幼少の頃NHKのみんなの歌で、鳥の羽を蝋で固めて空を飛んで、あまりにも太陽に近づいたために蝋が溶けて海に落ちて命を失った英雄の歌があった。が、神話では、父親ダイダロスとともに、クレタのクノッソス宮殿の幽閉から逃れるために蝋で固めた羽で脱出した愚息の話が描かれている。父親は無地にシチリア島までたどり着いたが、息子は父親の忠告を聞かず高く飛ぶことに夢中になって命を落としてしまう。イカロスが落ちたエーゲ海には今もイカリア島という島がある。神話は実話なのか。 何故シチリア島?それはシチリアは紀元前8−6世紀にはギリシャの植民地であったからだ。先住民でイタリア半島から来たシクリ人を支配下に置き、この地を「シクリ人の土地」、「シケリア」と呼んだことがシチリアの語源となったそうだ。現在の地理学では想像も出来ない形で古代の国々が繋がる。 そのシチリアを舞台にした映画に「シネマ・パラディソ」がある。その中に主人公のトトが野外で映画を上映している時に恋人エレナが突然現れるシーンがある。その時にバックで上演されていた映画がおそらく、ホメロスの「イーリアス」か「オデュッセウス」の英雄活劇だと私は思う。私のWestchesterの家の近くにOdysseyというダイナーがあった。ギリシャ人の親子が経営している。オデュッセウスといえばギリシャ神話のヒーロー、日本で言えば豊臣秀吉、Odysseyダイナーは差し詰め太閤食堂だ(笑)。 智将オデュッセウスと英雄アキレス(足の腱が唯一の弱点だった)が、トロイと戦う話がイーリアスである。難攻不落のトロイにオデュッセウスが奇策を講じる。巨大な木馬を作って中に兵士を隠して城門前に置き、退却と見せかけて船を島かげに隠した。トロイ軍は、敵が退散したと糠喜びし、木馬を城内に入れて勝利の宴会を始めた。すっかり酔いが回ったところに木馬から兵士が出てきた。これが有名なトロイの木馬。今でもネット詐欺の手口として名を残す。 長い間、この話は神話でしかないと思われていたが、シュリーマンという考古学者はこれを実話だと信じて私財を投じて探した。そして焼けた後の残る遺跡を発見して、これが実話であることを証明した。神話は実話なのであった。トロイは現在のトルコにあり、ギリシャの勢力圏がいかに広かったかが伺い知れる。 それらの多くの話の舞台となっているのが、今から向かうクノッソス宮殿である。クノッソスの迷宮(ラビリンス)には、頭が牛で体が人である怪物(フォードの車にトーラスをいう車がある)ミノタウロス閉じ込められていた。そこにテーセウスという英雄が現れ、ミノタウロスを退治するために生贄の1人に加わり見事怪物を退治した。一度入ったら二度と出て来れない迷路であるが、才色兼備の恋人、クレタの王女アリアドネが託した糸毬の糸をたどって迷宮の外に脱出した。頭良い!(笑)。が、その後テセウスはアリアドネを連れてクレタ島を旅立ったが、途中で立ち寄ったナクソス島にアリアドネを置き去りにした。アリアドネは悲しんだが、そこに酒の神ディオニュソス(ローマ神話のバッカス)が現れてアリアドネと結婚したそうだ。いくら惚れられているからと言っても油断は禁物だという教えである(笑)。 ギリシャ神話のこの面白さ。イカロス、オデュッセウス、トロイの木馬、ミノタウロス、ラビリンス、ディオニュソス、そしてこれらの名前が今も我々のボキャブラリーに生き残っているということは、ギリシャの古代文明がどれだけ西洋文明に影響を与えてきたのかを語る大いなる証拠なのだ。 神話は実話、ギリシャ神話の数々の舞台となってそのクノッソス宮殿は古代のミノア文明が築いた実存する宮殿であり、今も尚その遺構を見ることができる。そしてそれはアパートのある所からたった30分の距離なのだ。ラビリンスのような地形で道に迷わないようにGPSをしっかりセットした。 (続く) |
第13話 ラビリンス |
車の修理屋さんが経営する私たちのアパートは、フェリーが着くだけあってクレタ島の中心的街であるヘラクリオン(Heraklion)の縁にある。子供の頃に憧れたヘラクレス大角カブトのヘラクレスと何やら関係があるのかと思って調べたらやはりそうだ。Hercules(ギリシャの古代オリンピックの父)が語源になっている。 真っ直ぐな道が一本も無いこの街、ヘラクリオンは、ギリシャが独立する前は、オスマン帝国の前のヴェネチア共和国の前のビザンチン帝国の前の東ローマ帝国の前にアラブ人によって824年に最初に作られたとされる。が、そのはるか以前、ここにはミノアという古代文明(クレタ文明)があり、ギリシャ本土やキクラデス諸島と並行しながら独自の進化を遂げていた。その為か今まで見たアテネともミコノスやサントリーニとも全く違う。そのミノア文明の象徴がこのクノッソス宮殿であり、ギリシャ神話の舞台なのだ。 車で30分足らずで目的地に到着。さすが世界的な名所だけあって、オンラインの事前予約とか窓口の列だとか、eチケットやら煩わしいが、列に並びながらiPHoneでオンラインチケットを買って入場。ゲートを入ったらいきなり有名な遺跡がある。今は廃墟となった石の遺構であるが、作られたのはおよそ紀元前2000年頃、なんと4000年前と言うから驚きだ。かなり高度な技術とマンパワーがあったのだろう。キリストが生まれる2000年前となるとキリスト教は一切影響がない。それでも人々は信仰を求め、何かを拝んだ。何を?ミノタウロスだ。石の遺構の中心部に再現された色鮮やかな牛の怪物が描かれている。また、綺麗な柱に囲まれた玉座もある。おそらくこの宮殿で最も大切な彼らの宗教の祭り事と政(まつりごと)をとり行った部屋であろう。卑弥呼はシャーマニズムで邪馬台国を収めた。祭り事と政(まつりごと)、語源は同じなのかもしれない。 華麗なミノタウロスだけではない。美しく今も説得力のある女性の壁画、有名なボクシングをする少年、ミノア文明はこの美しい太陽の元、相当に美しく人々が暮らしていたのではないかと想像する。考古学者はこの城に外壁がないことからかなり平和であったと推測する。 一通り見終わるとラビリンス(迷路)を期待していた私は少し物足りなくもない。宮殿を出ると土産物屋が並ぶ中に、その名もラビリンスと言う店がある。店番の若い女性に、ラビリンスは何処か別のところにあるのか、と恥ずかしい質問をしてみた。彼女は、真顔で「この宮殿があまりにも複雑なのでラビリンスと呼ばれるようになった」 と教えてくれた。今は崩れてしまった石の建物だが、最盛期には4階建てで1200以上の部屋があったとされている。紀元前2000年に作られた宮殿、それはギリシャ神話よりも古いのであろう。神話はこの宮殿からインスパイアされて後に創作されたのだとみた。神話は実話ではない。 紀元前1370年頃に大規模な地震が起こり、それによってミノア文明に終止符が打たれた。それはサントリーニで学んだミノア噴火とは50年ほどずれており、火山の噴火でミノア文明のが滅んだとと言う説には反する。サントリーニの火山警報がキクラデス諸島全域の避難を執行してもここは圏外である。私も火山の噴火ではなく、地震によってこの文明が終わったと思う。いずれにしても、これだけ立派な宮殿を建て、これだけ彩色豊かにミノタウロスや艶やかな女性を壁画を描いた文明が終わってしまったと思うとあまりにもロマンティックで感慨深い。 (続く) |
第14話 Meet the Minoan Girls |
クノッソスの迷宮を後にして、車で次の目的地に向かう。Heraklion Archaeological Museumである。最初に古代アラブ人が作り、中世でヴェネチア人たちが砦を作ってその後ビザンチン、オスマン帝国、ギリシャと支配者が変わっていったこの街は、道が複雑で駐車するスペースもない。が、運よくヴェネチアの城壁の外側に無料で駐められるスポットを見つけた。 博物館は目の前だが、その前に腹拵え。観光地は高いのを承知で手っ取り早くピザ屋に入る。グリークサラダならぬクレタンサラダとピザ(笑)、にわかに好きになったグリークコーヒー。美味い。が、請求書を見るとびっくり。これはたいそうお値打ちだ。 博物館はすごかった!私は結構端折って観てしまうのだが、ここは全部観た。アラブの時代、ヴェネチアの時代、ビザンチン、オスマントルコ、ギリシャ独立後、それぞれの偉大に素晴らしい芸術があるが、私が心を奪われたのは一番古いミノア文明だ。ここに出てくるこの色彩豊かに描かれた女性の艶かしさはどうだ。紀元前の女性たちが何故にここまで輝いていたのであろう。また、祭事に使われたであろう足の無い尖った壺。驚くべきは、人々が輪になってダンスをする陶器の置物だ。これと全く同じものをエジプトのカイロでみた。これだけでアラブ人の入植を確定付けることができる。みんなその子孫なのだ。ヴェネチアはアラブ人からこの地を買い取ったとされる。さすがヴェニスの商人。その金貨も銀貨も残っている。 最後に、クレタ文明にインスパイアされた芸術家の一覧があった。ヘンデル、モーツアルト、リヒャルト・シュトラウス、中でもシュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」は、テーセウスがミノタウロスを倒すことに協力したのに、ナクソスでおざなりにした悲劇のヒロインではないか!ヘンリー8世のハンプトンコートの迷路、私の好きな今はなくなってしまった俳優フィリップ・シーモア・ホフマンの映画、その名もラビリンス、デビッド・ボーイのアルバム、その名もラビリンス、エリザベス・テイラーのイヤリング、その他ありとあらゆる芸術作品、調度品に影響を与えている。後日談だが、8月1日深夜にNYに戻った私は次の日にハーレムでギグがあった。二週間ピアノに触っていなどころか音楽からも遠ざかっていた私が久しぶりにピアノの弾いた瞬間に今まで描いたことがない作風の曲が出てきた。クレタン・サラダと名付けたその曲を弾いたところ、お客さんから大好評をいただき、若い学生さんからは譜面をいただけないかと依頼された。クレタ島のインスピレーションはただならぬものがある!ここに載せてもらわなければ(笑)。 庭に出ると強烈に口が渇いたので、ジュースを買って野外のテーブルに座る。近くには石に刻まれた私の読めない古い文字が見え、巣立ちのような柑橘類がなっている。ミノア文明が豊かでいられたのはこの太陽と恵まれた農作物であろう。が、豊かさゆえに常に外国の支配下におかれる。ヴェネチア、ビザンチン、オスマン帝国。 火照った体を冷まさねばならない。アパートのジョージが教えてくれたビーチが近いはずだ。車で20分ほど走るとヘラクリオン郊外にビーチがあり、かなり賑わっていた。夕刻なので車をビーチ際に駐め、そのままビーチに出た。サントリーニの美しいビーチとは比べられないが、幸せなビーチタイムを過ごした。 その足で、スーパーに寄って夕食を買う。古代からミノアの人々が暮らした土地に今は地下駐車場が付いた立派なスーパーマーケットがある。 ホテルに帰って洗濯と夕食。学校で習った地理や社会では知り得なかった国々の栄枯盛衰と時空を超えて美しさを放つ芸術作品を眩しい太陽の元で吸収した素晴らしい1日であった。 (続く) |
第15話 ミノア哀史 |
クレタ島に着いてから二回目の朝を迎えた。昨日はクノッソス宮殿と考古学博物館で至極の時を過ごした。その疲れも無いわけではないが、今日は島の反対側に出かけることにした。車に乗り込もうとしたら、修理屋からご主人のジョージが出てきて話しかけてくれた。君はジャズピアニストなんだね。ビデオ観たよ。とても良いね。ウチの娘も胎教音楽をかけて本人も楽器を弾くよ、ととても気さくな人であった。私たちがアテネの空港から運転している新車のFiatPandaの色が気に入ったらしく、ボンネットを開けてカラーコードを見せてくれと言われた。今改造を行っているBMWのゴツい車にその色を塗るつもりだな、と私は勘繰ったが喜んで見せてあげた。 島の反対側と言っても、ここはサントリーニでもミコノスでも無い。広島県と同じくらいの島なのだ。私たちは一番近い反対側の南の海岸に行くことにした。後で知ったのだが、それには大きな山を超えなければならず思った以上に長いドライブとなった。 まず目指すのは、ミノア文明のMinoan Palace of Phaistos(Φαιστός)。昨日クノッソス宮殿に行ったばかりだが、今日はミノア文明第二の宮殿に行くのだ。ヘラクリオンから62km。道中でかなり高い山に登り、途中から高速道路が無くなり、山道だったり集落を超えたり、中には市が立っていて迂回して墓場や薮の中を行かざるを得ない街もあり距離以上に時間がかかった。が、焦らずに運転して目的の宮殿に着く。 規模はクノッソス宮殿よりは小さいが、精密さと迫力はこちらの方が上かもしれない。特に正面玄関の広場と幅広い階段は圧巻である。ガイドブックには、外壁が見当たらないことから随分と平和だったことが推測できるとある。祭事に使われたであろう石の道具、石の柱の根本、竜の頭、全てが感動的であった。所々の植物、勢いよく伸びるローズマリー、花をつけたサボテン(エジプトではこれを冷やして食べる)、脇で寝そべる猫、全てが絵になる。前方には白い岩肌の山が並び、後方には海が見える。人がほとんどいない。ここで一句「ミノーアン岩にしみ入る蝉の声」、もう一句「「夏岩や兵(つわもの)どもが夢の跡」。 カフェで猫と一服して再び車に乗る。やはりビーチに入りたい。近くにビーチがあるというので出かける。山を降ってトスカーナのような景色の中にいきなり廃墟となって教会が現れる。降りて散策してみるとヴェネチアの教会だという。ミノア文明、シチリア、トルコ、オセロのように支配者が入れ替わるこの地でヴェネチアが現れた。そうなのだ、現在の私たちはヴェネチアをイタリアの一都市としか認識していないが、7世紀末期から1797年にナポレオン・ボナパルトに滅ぼされるまで実に1000年以上の間にわたり、歴史上最も長く続いた共和国である。改めて地図で見るとイタリア半島には属していない。「アドリア海の女王」とも呼ばれれ、アドリア海をベースに東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。高校時代から興味があって小遣いで自叙伝を買って読んでいた私のヒーロー、ジャコモ・カサノヴァの母国である。その支配者であるヴェネチア人が作った教会なのであった。今は誰にも使われず廃墟となっている。ヘンリー8世が英国国教会を作ったおかげで、UKには沢山のカトリック教会の廃墟がある。崇拝の対象であるはずの神聖な教会の廃墟、これには心を掻き立てられる。 ビーチに到着。Paralia Matalaという。これは凄い。沢山の人で賑わっている華やかなビーチだが、圧巻な事にビーチの両岸に大きな地層が斜めに海に突入している。で、その中が空洞になっていて人が登って遊んでいる。Caves Matalaと言われ、昔から人が住んだりしていたようだ。さらに、沖合に黄色い大きな岩盤があった、100メートルほど泳ぐとその岩盤に立つことができる。私は面白かった。ここは、黄色の岩が織りなす自然が作った壮大なビーチであった。海は真っ青で、ここから先には島が殆どない。あるのはアフリカ大陸だ。 (続く) |
第16話 イディ山とアマリ渓谷 |
今日は、クレタの首都ヘラクリオンから島の反対側への遠征なので、往復のドライブだけで終わるはずだったのだが、ここまで面白いビーチを堪能できるとはボーナスであった。熱った身体にビーチ脇の冷たいシャワーを浴びて(これが気持ち良い)服を着替えて、何かドリンクでも飲もうとビーチ沿いの店を覗いてみたのだが、何となく入る気にはならず、車を走らせることにした。次の目標はAmari Valley。私たちは、DK Eyewitnessというガイドブックを使っているが、その中に時々、面白いドライブツアーが紹介される。有名どころではなくて、言わば隠れた名所のドライブなのだ。以前、初めて行った南仏プロヴァンスでこれを見つけてドライブしたところ、ピアニスト・リストのパトロンの城とか、全く観光客がこないようなローカルな美しい村とか、村の八百屋で初めて黒いトリュフを見つけたりとか、それはそれは秘宝を見つけたように楽しかった。Tour of the Amari Valleyと名付けられたそのコース、行かない手はない。 GPSをAmariという街にセットして暫く走ると道はどんどん不思議な空間に入っていく。車が殆ど走っていない。所々に静かな集落がある。道端に古い石の水飲み場があったので停めてみた。十字架が刻まれたその石の建造物は非常に古いものであることがわかる。ヴェネチア人によるものであろう。途轍もなくエキゾチックで何だか寂しくなってきた。所々に教会があり、ギリシャとクレタの旗が掲げてある。さらに進むとオリーブの木が植えてある不思議な草原の向こうに真っ白な岩山が見えてきた。Unescoにも登録された自然公園、標高2465mのクレタで一番高い山、Mount Ida(Idha, Idhi, Ita, Psiloritis)だ。古地図にもその名を記す神秘的な山で、古く神話の時代から人々は畏敬の念を払っていたに違いない。空の青、高木限界上の山肌の白、その下の木々の緑、大地の茶色、明るい太陽に照らされたコントラストが大変に綺麗だ。ふと写真を撮りたくなって停めてみると、蜜蜂の箱が並んでいた。きっと美味しい蜂蜜が採れるに違いない。 随分と長い時間運転しているが、山道でスピードが出せないので仕方がない。すると突然村の入り口に差し掛かった。ここから街道を外れて村に向かう。眠っているような静かな村に着き、小高い山の麓に車を駐めて歩く。暫く迷った後にいきなり目指す時計台が見えた。が、表示もなければ入り口も見つからない。家と家の隙間の草むらを通ると何とか近くまで来ることができたが、もう閉鎖されているようだ。13世紀の古いヴェネチア人の教会が、今は草が生え放題になって放置されている!昔三蔵法師がありがたい経典を求めて決死の思いでインドのガンダーラに着いた時、彼の地では仏教が廃れて寺院が砂に埋もれていた。それを見て三蔵法師は地に這いつくばって泣いたそうだ。私は泣かなかったが不思議な思いであった。それにしても人が少ない。ハイシーズンの7月のギリシャなのに?私が悲しい気持ちでいると近くから細君の声がした。行ってみると地元の女性が細君と話をしていた。どうやらそこで作っているチーズの味見をさせてもらっている。ヤギなのか羊なのか、言葉は上手く通じないが我々に途中経過のチーズを試食させてくれた。彼女の優しさに感動した。 再び車に乗る。暫く走ると森に羊の群れがいて、カランカランと首の鈴を鳴らして寝る場所に固まろうとしていた。先ほどのチーズはヤギだったのだ。思わず降りてビデオを回した。メーという情けなさそうな鳴き声と、カランカランという首に付けたカウベルの不規則だが心地良い音、牧歌的とはこのことだ。が、その近くに珍しくレストランがあって、私は運転で見れなかったが、細君によると外で羊を丸焼きにしていたそうだ。自然と共に生きるとはこういうことなのだ。 村を後にする。車はさらに山道を進むが、周りの木々が低くなって岩が多くなっていることから標高が上がってきていることがわかる。と、突然ヤギの群れが現れた。ヤギは肉食動物から身を守るために崖に登る。この群れもそうで、わざわざ高いところに登って集まっていた。野生のヤギを見たのは初めてかもしれない。感動した。 ガイドブックのAmari Valleyツアー、素晴らしいものであった。陽が夕方の光になってきたので帰路に着く。が、突然大きな修道院らしき建物が見えてきた。庭に車を駐めて建物に近づくとグレゴリオ聖歌のような音楽が聞こえてくる。コーラス隊の練習なのか。おそるおそる庭を進んてみるとなんとそこにはポスターで見た大きな修道院があった。Moni Arkadiou、なんと5世紀から続くヴェネチアの修道院なのであった。 (続く) |
第17話 ヴェネツィア領クレタのヴェネツィア修道院 |
フランスの歴史学者フレディ・ティリエはヴェネツィア領クレタを「中世に存在した、唯一の正真正銘の植民地」と称した。確かに大航海時代よりもずっと早くに植民地があることは稀有のことかもしれない。すっかりスペイン人だと思っていた16世紀の画家エル・グレコは、クレタ島のヘラクリオンに生まれ、ヴェネチアを経てスペインのトレドで活躍した。ヴェネツィアの植民地統治の元でクレタ島は大いに発展し、ヴェネツィアを通じて当時イタリアで進展していたルネサンスの影響を受けてギリシア世界では他に比類のない芸術と文学の復興がもたらされたそうだ。クレタ島が全く異なるのはそのためなのだ。 さて、偶然にも裏から入ったMoni Arkadiou、ヴェネチア人たちが作った修道院で有名なファサードがある。葡萄畑を横目に正面に回ってみた。あった。見事だ。修道院自体は5世紀に始まったそうだが、このファサードは1587年に建てられたものだ。が、それでも強烈に古い。イタリアでよく見たルネッサンス様式の石の壁に、サントリーニでも見た三つの鐘が建つ。三つの鐘は愛・感謝・奉仕を表すものだと聞いている。 中に入ると、ギリシャ正教の教会になっていて、大きな祭壇と聖人たちの肖像画ある。これはビザンチン美術ではないのか。ローマ帝国は西と東に分断し、東ローマがビザンチン帝国となりオスマン帝国に滅ぼされるまで発展した。オスマン帝国になってもその美術様式は正教の中に継承され、こうして肖像画などにみることができる。馬上から龍を対峙する少女(?)をSNSで掲載したらギリシャの友人がSaint George (Agios)だと教えてくれた。少女ではないのだ。彼が「皆のもの聞け、神とキリストを信じて洗礼を受けるなら、私が龍を退治してやろう」と言うと皆がキリスト教徒になり、彼は龍を退治したそうだ。竜の頭を街から運び出すのに4頭立ての場所が必要であったそうだ。だったら、この絵の縮尺は間違っているのではないか(笑)。 本堂の他に回廊になっている古い建物が並ぶ。そこに生えるエキゾチックな植物、イーグルスのホテルカリフォルニアのジャケットを思い出す。昔留学したスタンフォード大学のキャンパスにも似ている。そう、スペインの影響だ。 子供の頃、父親が札幌に出張すると決まってバター飴をお土産に買って来てくれた。その箱に、トラピスト修道院と書いてあった。修道院で作った飴?そうなのだ。修道院ではその地で採れる農産物で修道僧たちが保存食を作っていた。売店に行くと、ワインを始め、ハチミツ、酢、飴など美味しそうな品が並ぶ。全部買って帰りたい。最近野菜作りにのめり込んでしまっている私には朗報なことに、野菜の種が売っていたので、トマト、オクラ、大変面白い色のズッキーニとほうれん草(Amaranteという種類)を買った。クレタ島の太陽には及ばないがNYで来年栽培してみようと思う。 大きな部屋には大きなテーブルが並ぶ。修道院では会話が禁止されていたので、魚、野菜、それぞれの手話があったと聞く。大勢の修道僧たちが黙って食事をしている姿が想像できる。 それにしても古い。その時間の重みが風化した石に刻まれた暗号(ギリシャ文字?)から伺い知れる。回廊も、威勢よく伸びた庭のハーブ、高い木、石の門、気持ちよく寝そべる猫たち、夕刻でも強い太陽、全てがとてつもなく異国情緒にあふれて美しかった。帰路に着いたつもりだったところにこの修道院は神からの贈り物であった。 感動的な修道院を後にして、今度は本当に帰路に着く。先ほどまで正面に眺めていた白いIdaの山を今度はバックミラーに覗きながら、ひたすら美しい山道を走る。それが高速道路になり、海が見え、ヘラクリオンの街に入る。どうせなので、ヘラクリオンの港にあるヴェネチアの砦も見た。今日はヴェネチアがテーマなのだ。精密に石を積み上げた砦に今はギリシャの旗が立っている。戦いには関係ないはずのレリーフがある。信仰心の厚いヴェネチア人のなす技か。周りを歩くとクレタ島に上陸した時のフェリーポートがある。明日はここから再びフェリーに乗りアテネに戻る。 アパートに戻りしばし休んで夕食に出る。今日は実質クレタ島最後の晩餐だ。ここは気張って最初の夜に感動したバルデスに行く。歩いて5分、路地のレストランは日が暮れる港を見張らせる何とも言えない美しいテーブルセッティングだ。アパートのオーナー、ジョージから薦められた前菜を頼んでいるとなんとジョージ夫妻が現れた。気のいい彼は私たちにビールをご馳走してくれ、またレストランが注文を間違えたと更なる料理を持って来てくれ、テーブルには食べきれないほどの料理が並んだ。そして店がデザートをご馳走してくれた。クレタ島の最後の晩餐はことの他豪華なものであった。 明日は夜行フェリーでアテネに戻る。私たちの二週間のギリシャ旅行はいよいよ大団円を迎える。 (続く) |
第18話 戦争の傷跡と夜行フェリー |
今日は3泊お世話になった超快適アパートをチェックアウトしてフェリーでアテネに戻る。最初はサントリーニまででプランしていた今回のギリシャ旅行であったが、クレタ島に残るギリシャ神話を知るとどうしても来たくなってクレタを押し込んだ。サントリーニがキクラデス諸島の最南端、そこからいい気になってさらに高速船で2時間も南下しまったのである、アテネまでは高速で航行しても9時間の船旅になる。チョイスは二つしか無い。朝9時にクレタを出て夕方6時にアテネ、もしくは夜9時にクレタを出て翌朝6時にアテネ、いくらエーゲ海が美しいと言えど丸一日を船で過ごすのは勿体無い。というので、私たちは夜9時にここを出る夜行フェリーに乗ることにした。 となるとアパートをチェックアウトしてから丸一日外で過ごさねばならない。見どころは多い。クノッソスほどの知名度はないが、その近くにヴェネチアの水道橋があると絵地図に出ているので、頑張って名前を探してGPSに打ち込んでみた。4WDじゃないと心配になるような舗装していない畑の中の道を30分ほど走るといきなり目の前に水道橋が現れた。全く人気の無い燻んだ緑色のオリーブ畑に古い石の橋が見事に溶け込む。感動して車を停め、何枚も写真を撮った。Sylamos Aqueductというらしい。驚くべきことに、近くにもう一つヴェネチアの水道橋があるという。それも目指してみた。あった。Venetian Aqueduct of Morossini、今度のものは二重構造になっており、車の道が橋の下を通る。橋の向こう側に人がいる。これは行くしか無い。このあたりだとGPSが追いつかないので、王女アリアドネの糸毬の糸を手繰るよう山道を運転すると小さな教会に着いた。Agia Irini、サントリーニのイリーニだ。車を降りてみると人々が何やら庭でパーティーをしていた。おそらく洗礼式か何かめでたい集まりなのであろう。手作りのデコレーションを木に飾り、ジュースのピッチャーがあり、手作りのお菓子が並び、その上の橋の袂で猫が二匹爆睡していた。心温まる光景だ。さらに奥に進むと二重橋の最上段を見ることができた。歩くこともできる。ローマの水道橋と似ている。おそらく中世の遺物であろう。 さて、今日は長い1日だ。ゆったり行こう。二つの水道橋を観たら休憩だ。近くに、レストランがある。まだ準備中な感じだが、とても素敵な女性が中に入れてくれ、庭のテーブルでコーヒーを飲む。店内も庭もセンスが抜群に良い。蝉しぐれの凄まじいこと。滋養強壮にアパートのジョージがくれたハチミツたっぷりのドーナツをこっそり食べてヘラクリオンの街に向かう。初日に見つけた街の外壁の無料のパーキングスペースに車を滑り込ませて街を歩く。今日は日曜日で店が沢山しまっているが、1600年代に作られたヴェネチア噴水、その名もMorosini Fountain(先ほどの水道橋と同じ名前だ)に行く。外のベンチに座ってアイスクリームを食べる。眠い。 もう少し歩くと、Agios Minas (St. Menas)という教会があった。正面に鳩が沢山いて子供が遊んでいた。中に入ると典型的なギリシャ正教の祭壇があり、ステンドグラスがことの他綺麗で午後の光を床に落としていた。横には何とWWIIの爆弾が飾ってある。 片道3時間かかるというので諦めたシャニアというもう一つの街がある。1944年5月20日、夥しいドイツ軍兵士がパラシュートでシャニアに降りて来て10日間の激戦の末一帯を占拠した。1945年にドイツが降伏するまで4年間にわたりクレタ島はフランス同様ドイツの支配下に置かれ、ギリシャ人たちはレジスタンスを続けた。ペネロペ・クルス主演の2001年の映画Captain Corelli's Mandolinで第二次世界大戦中のギリシャのイタリアとドイツの占領の様子がラブストーリーを軸に描かれる。映画の舞台はギリシャ本土のケファロニア島であるが、占領されたギリシャの悲惨さは同じであろう。ヴェネチアとオスマン帝国に加えてイタリアとドイツが占領国として名を連ねる。 そうこうしている間に夕方が来て、早めのディナーを食べることにした。昨夜お気に入りのバルデスで最後の晩餐をしてしまったので、今回はヴェネチアの噴水に近い観光レストランで軽く夕食をとる。が、そんなものはこの国にはない!美味しいパンから始まって、クレタサラダ(この思い出が後に曲の題名となる)、魚介類のリゾット、チキン、そしてこの店も簡単なデザートを出してくれた。ギリシャのレストランの主人は「ギリシャの主な産業が観光である、よって観光客には最大限のサービスをしましょう、デザートは何かつけましょう」と商工会議所で言われているのだろう(笑)。 車に戻ってフェリー埠頭に向かう。おー、私たちの乗る巨大なフェリーが夕日を浴びて白く光っていた。その名もMinoan Lines!紀元前ここに文明をはった人々だ。これ以上の名は無い。車ごと乗船してデッキに上がるとそこはホテルのカウンターになっていた。こんな巨大な船に乗ったのは初めてだ。船内は一つの街くらいの大きさで、カフェ、バー、レストラン、プール、全てがある。自分の部屋に入ると綺麗なシャワーがありツインベッドがあり、窓から港が一望できる。出発する頃に最上階のデッキに出た。青く照らされた大きな煙突と幸せそうな人々が集うデッキ、いつの間にか動き始めた船。最後にもう一度クレタの昏れなずむ街を見る。夢のようだ。この幻想的な光景を私はずっと忘れないと思う。 クレタよ、本当にありがとう! |
第19話 古代オリンピックと大団円 |
朝の5時、細君に起こされた。夜行フェリーに乗っていたのだ。館内放送で車に戻りなさいと言っている。急いで荷物をまとめて車の格納デッキに向かう。が、人が多くて進めない。狭い階段を降りて何とか自分の車を探して乗り込んだ。間に合った。頭がまだ寝ているうちに10日前までいたアテネに上陸。10日前、ここから低速フェリーで4時間かけてミコノスに行き、サントリーニの経由でクレタに行き、今日はクレタから高速夜行フェリーを使ってまたアテネに帰ってきた。ギリシャの島巡りが見事完結したのだ。 このまま飛行機でNYに帰るとキリが良いのだが、安全のためにもう一日アテネで過ごすことになっている。熱波で登ることができなかったアクロポリスに再挑戦という手もあるが、朝からこの温度、登れる確率が低そうだ。それに、これだけ美しい島々を堪能したあとで、あの街の喧騒に戻る気がしない。そこで、プランB、アテネをスルーして郊外のDelphiに車を走らせた。デルファイとはアテネ郊外の山間部の街で、古代オリンピックの会場となったところである。小さな街で車がないといけない不便なところだが、その名は世界中に広まっている。 現代アテネのラッシュアワーの商業地帯を抜けて、2時間ほど走ると高速を降りて随分と田舎の道を走る。山に入る。山に登る。このあたりはスキーができるらしい。ギリシャでスキー?知らなかった。 素晴らしく綺麗なリゾート地をいくつか通り抜けてデルファイに到着。人がわんさか居て車を駐めることが大変だ。遠くに駐めて歩いて、博物館に行く。昨日までいたクレタとは全く違う遺産がそこにあった。有名なのは、アテネでも見たSphyinx of Naxos。Sphyinx?やはり古代はアラブの文明と接触があったと確信する。沢山の古代の出土品、ブロンズや石の像、かなりの文明があったことは確かだ。古代ギリシャは都市国家(ポリス)であった。ローマのような絶対的な皇帝が全てを治めるのではなく、自治権をもった都市国家が沢山集まってギリシャというアイデンティティを持っていた。要は餃子の王将やKFCのフランチャイズみたいなものだ。が、そのフランチャイズ都市国家が戦争を中断して、一同に会するのがオリンピックなのだ。男だけで皆裸で競技をしたと言われている。決定的なものを見つけた。トーガを着た女性が火のついた鉢を持っている。これは聖火以外何物でもない。近代オリンピックが点火式と聖火リレーを行うのは古代オリンピックへのオマージュなのだ。 外に出るとひたすら暑い。先ほど見たスフィンクスのような顔をした猫が伸びて方々に横たわっている。外で古代の競技場を見た。本当は石の板のスタート地点からアスリートの如く走ってみたかったが、そこには入れなかった。それでも、石の神殿が築かれており、ここにスパルタ(Spartiという街に今も遺跡がある)、ホームチームであるアテネなどのポリスが停戦をして競技に参加して、ローレルの葉で表彰される姿が想像できる。それにしても暑い。これだけ高地で暑くて良い成績が出るのか(笑)。 古代オリンピックの会場をすっかり堪能して、というか暑さで参って、車に乗り込む。暑くてクーラーが効かない。水補給の休憩で、最初のガソリンスタンドに入る。すごく綺麗なコーヒーショップとベーカリーがあって、お兄さんが「You are at the right place」と言ってくれた。その言葉に何故かほっとした。そこで、ジュースとコーヒーとランチのサンドイッチを買って、外で食べていると、先ほどのお兄さんが、「よかったら2階に空調の部屋があるから使ってくれ、景色も良いよ!」と言ってくれた。お言葉に甘えて階段を登ると誰もいないガラス張りの部屋があり、そこから先ほどの街デルファイが眺望できた。 ギリシャの人は皆本当に優しい。これはアメリカ、ましてやNYでは中々出くわさないし、フランスでも体験したことがない。大体、最初から英語をしゃべってくれて、「え、フランス語ができないってどう言うこと?仕方ない、英語でやったるわ。」という態度は微塵もない。 何年か前に、ギリシャの国は経済破綻したとニュースで読んだ。でも、だから何なんだ。ギリシャの人はすっかり貧乏になったのか?経済破綻しようが、EUのお荷物国家だろうが、それは紙の上でのこと。「国破れて山河あり」。「経済破綻して美しい海と山、美味しい料理、古代からの遺跡、世界が今だに敬意を払う文化あり」なのではないか。ミノア文明滅亡、アラブの入植、ヴェネチア、オスマン帝国、イタリア、ドイツの支配を受けながらも、今こうして優しく生きている幸せな人々がここにいる。 チャーリー・チャップリンの独裁者という映画(ヒトラーに対抗した映画だ)の最後に感動的なスピーチがある。独裁者に間違われた善良な市民が「Machinery that gives abundance has left us in want(豊かさをもたらすはずの機械が私たちを欲求不満にする)」と叫ぶ。 明日飛行機で文明が高度に発達したNYに戻る私たちに、この二週間のギリシャの旅はとても大切な疑問を投げかけてクレタ(失礼)。それは時が経てば経つほど、機械の中で忙しくなればなるほど、より美しく輝く思い出になるであろう。ギリシャ、ありがとう! (終わり) |
Camera: Canon EOS R6 Mark II, EOS R8 & iPhone 14 Pro
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