Jazz Pianist
Poland 2022
Texts and Photos by Takeshi Asai
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第1話 ショパンの祖国へ |
ポーランドに演奏旅行に行くことになった。この話をマネージャーが持ってきてくれた時、実現するとは正直思っていなかった。ポーランドは紛争下のウクライナと国境を接する国で、ある人の話では「難民が押し寄せてきて、空軍基地にはF16が配備されて毎日爆音が聞こえる」らしい。が、それでも彼の地ではコンサートもジャズフェスティバルも平時として行われ、フライトは決まったのかと催促が来てしまった。しかも、今回の演奏は規模がデカい。一つは二日間のジャズフェスティバルの二日目、もう一つは大都会のウィルヘルム2世が建てたインペリアルシアターでのジャズシリーズ、光栄極まりない。というので、一抹の不安を覚えながらも出かけることにした。 演奏でもプライベートでもポーランドに行くのは初めてである。不思議なもので、こういうことも国同士の繋がりが背景にあるような気がする。ポーランドは、私が毎年のように出かけていたフランスとは歴史的にも縁が深く、ピアノの詩人フレデリック・ショパン、ラジウムの研究でノーベル賞を二度受賞したマリー・キュリー、フランスで活躍たポーランド人は多い。 7時間のフライトは快適で、シャルル・ド・ゴールに3年ぶりに降り立つ。久しぶりのフランス、久しぶりのヨーロッパ。何もかもが本当に洗練されている。早速カフェで朝食にクロワッサンとカフェオレを注文する。 パリで乗り継ぎのワルシャワ行きの便を待つ。初めてポーランドの人を見つけた。何かのスポーツチームのようで、背中にはPOLSKAとある。Polandの国名を現地ではそう呼ぶ。後に実感することになるが、POLとは草原のことで、国名は「草原の民」を意味する。 パリから二つ目の飛行機に乗り2時間ほどで、Warsawに到着、現地ではWarszwa、日本でもワルシャワという。空港の名前はLotnisko Chopina w Warszawie (Warsaw Chopin Airport)。NYの空港もGershwin Airportにしたらどうかと一瞬思った。一国の首都にしては小さく鄙びた空港であるが、無事に到着して安堵する。「We are PROUD OF POLAND」というショパンを擁した赤いポスターが貼ってある。赤と白二色の国旗は日本と同じだ。すっかり現地通貨のことを忘れていたので、カウンターで両替。大体10PLN(スローター?)が2ドル、5分の1と思えば良い。 入国を済ませると地下の電車の駅に向かう。駅は暗く、小さく、陰惨で、最近観た映画のロシアのようだ。急に寂しくなってきた。チケットは券売機が複雑すぎるので、車内で買うことにした。電車に乗ってしばらく走ると車掌のおばさんが、息子か誰か私服の青年と一緒にやってきた。チケットを持っていない、しかもクレジットカートか高額の紙幣しか持っていないというので、あからさまに嫌な顔をされた。が、随分と時間がかかったが青年の通訳のお陰でなんとか切符を買って目的の駅で降りた。 とりあえず地上に階段で上がってみる。寒くはないが、まだ夕方なのに真っ暗で、目の前に威圧的な建物が霧の中に聳えている。そうか、ここは長いこと帝政ロシアの支配下にあったのだ。フェースペイントをしている若者がいる。忘れていた、今日はハローウィンなのだ。 GoogleMapを使って15分歩いてホテルに着く。ちょっと前までは貴族のお屋敷だったと思える宮殿のようなアパートにチェックイン。中庭があって、大きなリビングに、大きなバスルーム、台所に、マスターベッドルーム、小さなベッドルーム、巨大なこの空間が一泊50ドル?残念ながら、明日は大きな移動で早朝出発なので、今日は荷物を広げたくない。 時差で体内時計は無茶苦茶になっているが、それでもお腹が減ったので、外に出る。レストランに入る気はない私に救世主が現れた。ホテルのほぼ隣に感じの良いスーパーがある。お惣菜パンと果物を夕食に買う。パンの種類が豊富だ! 最初のコンサートではバッハのクロマチック幻想曲を弾くつもりをしており、その準備のために参考にさせてもらったイギリスの女性ピアニスト、アンジェラ・ヒューイットが「コンサートピアニストは孤独だ。一人で練習し、一人で旅行し、一人でレストランに行き、一人でホテルに泊まる。」と言っていたことを思い出した。ソロピアノのツアーは実は私自身初めてで、今まではバンドメイトと一緒に旅行したり、現地で合流したりと、孤独であることはほとんど無かった。 食事をしたら、もう起きていられなくなった。寝る。明日は6時間の電車の旅。まずはこの素晴らしい機会と無事にワルシャワに着いたことに感謝した。 (続く) |
第2話 ワルシャワから中世の城の町へ |
やはり時差はきつい。夕食の後、スイッチが切れるように眠ったのは良いが、夜中の2時には目が冷めて、それから半分寝た状態で朝が来てしまった。外は雨。宮殿のようなホテルの窓からは白い壁と美しい紅葉が見える。 ホテルの一階にはレストランがあるので、そこに行ってコーヒーを頼んだ。辿々しい英語でエスプレッソかBig Cupかを聞かれたので、Big Cupでと頼んだら、私にはとても小さく見える紙コップで少量のコーヒーが出てきた。とりあえず、部屋に持っていって飲んだが飲み足りないので、再び外に出てみた。どうやらここの人はコーヒーが好きなようで、スタバ形式の珈琲屋が沢山並んでいて、やっと大きなラッテを頼むことができた。カウンターの若い女性に、ポーランド語の挨拶を教えてもらったが、非常に難しくて中々覚えられない。申し訳ないが、英語で通すことにした。 が、ゆっくりはしてられない。朝食に昨夜スーパーで買ったリンゴを食べ、荷物をまとめてチェックアウト。今日は、6時間かけて、最初のコンサートの場所である、Kwidzyn に行く。この町の名前、私には全く発音できなくて、現地の人には全く通じない。ポーランド語は、アルファベットも少し違っているし、読み方も単語も全く違う。言語学的にはロシア語系なのだ。以前観たロシアの映画「戦争と平和」の言葉に非常に響きが似ている。フランス語を少しかじった私は、スペインもイタリアもそれなりにコミュニケートできるのだが、ここは全くお手上げである。 小雨の中、荷物をひきづって駅まで15分歩いて昨夜到着した駅に着く。国際電車も出ているワルシャワ中央駅であるが、相変わらず暗い、小さい、で陰惨である。なんで窓を作らないの?電車を見つけて乗り込んだ。ここからは、結構快適な特急電車でMalborkという街まで3時間、そこで2時間ほど待って、ローカル線に乗り換え、さらに1時間ほどで、中世の城の町Kwidzynまで行く。遠い。 ショパンのノクターンが電車のメロディだ。高校生の頃、楽譜を使わずに、耳で音を拾って自分のアレンジを弾いていた。その頃から、クラシックではなくジャズピアニストになることが決まっていたと言えよう(笑)。 車窓に広がる景色は、どんよりと霧なのか雨なのかで幻想的な草原ばかりである。寒いのだが雨が多いようで、草原の緑が美しい。スコットランドに似ている。 Malborkに着く。地図上では乗り換えの拠点になっているそこそこの街だが、なんとも寂しくて暗い駅であった。早速駅舎の外に出てみたが、古いレンガの建物、駅の外にしかない有料トイレ、そして煙突から煙を出し続ける工場、そこを覆うどんよりと曇った灰色の空、とても悲しげな景色であった。 ランチタイムとして2時間ここで過ごす。売店でサンドイッチとポテトチップスを買って待合室で食べる。だが、この待合室、貴族のお屋敷だったのか、ロンドンのヘンリー8世の宮殿、ハンプトンコート張りの中世の木の彫刻が見事に壁と天井を飾る。思わず広角レンズを取り出して撮影してみた。が、そんな立派な待合室に居合わせた「北に帰る人の群れは誰も無口で」私が食べるポテトチップスの音だけが静かな部屋に鳴り響いていた。 いつの間にか、ホームに二両建のディーゼルカーが止まっていたので、自分でドアを開けて中で待つことにした。ここからさらなる田舎の単線レールを音のうるさいディーゼルカーが走る。景色はさらに田舎で、農家と牛の放牧も見える。1時間弱でKwidzynに着く。エレベーターで居合わせた親切なご婦人が、タクシー乗り場を教えてくれた。 駅舎がとても綺麗で、紅葉がしっとりと濡れた道を鮮やかに飾る静かな美しい田舎町であった。電車から降りてきた数人以外に周りには誰もいない。GoogleMapを頼りに15分、予約をしておいたアパートに到着。とても綺麗な部屋にチェックイン。 相変わらずどんよりと霧のかかった景色で、町のシンボルであり今回の演奏会場でもある古城は見えない。代わりに窓からは市役所のような黄色い建物が見える。 ベッドでほんの少し休んだら、もう暗くなっていた。ここは日が暮れるのが早い。日曜日の午後にNYの家を出て、火曜日の夕方に到着。移動に明け暮れた三日間であったが、とりあえず最初のコンサートの街に無事に着けて本当によかった。 (続く) |
第3話 中世の城の町 |
長旅と時差できちんと寝ていないまま朝が来た。頑張ってコンサートの一日前に着いたのは正解だ。今夜が演奏だったらたまらない。明日の夜に向けてゆっくりと体調を整えられる。カーテンを開けるとどんよりとした天気で、向かいの黄色い市役所に掲げられた赤と白のポーランドの国旗と青いEUの旗が霧雨を通して見える。自分がポーランドにいるのだと改めて思う。 とは言え、一日中寝ているわけにはいかない。とりあえず、備え付けのエスプレッソマシンでエスプレッソを入れ、濃霧の表通りに出てみることにした。そもそもこの町の売りは中世の壮大な城なのだが、昨日の夕方に到着してから未だ見ていない。城を見なくてはここが本当にその音楽祭の場所かどうか確信できない(笑)。ということで、暖かい格好をして外に出てみた。 城までは徒歩10分、メインストリートを歩けば良い。小学校がある。いきなりたくさんの子供たちが出てきた。今日は水曜日なのだが、昼前に下校なのだろうか。 とても異国情緒のある建物と教会がある。ここはカトリックの国だ。至る所に、十字架、司祭が被る三角巾、と蚊取り線香のような渦巻がついた杖の3点セットを著したレリーフがある。この国のキリスト教の三種の神器なのだろう。 観光客はゼロだ。ここには国際化の波は全く届いておらず、見渡す限り単一民族国家である。 大きな大聖堂と隣り合わせで、荘厳なレンガ作りの城があった。着いて初めて分かったことに、演奏会場はこの城ではなく、隣にあるモダンなコンサートホールであった。がっかりでもあり嬉しくもあった。 が、体調も冴えない、天気も冴えない、休憩しようにも店はどこも開いていない、友達はいない、おまけに70ドルのレンズフードを落としてしまった。寿司ブームはこんな田舎町にもきているようで、Yakuza Sushiなる寿司屋があるが、入るには勇気がいる(笑)。ラッキーなことに、Zabkaというコンビニが開いていて、そこではコーヒーマシンで自分の好きなコーヒーが煎れられ、サンドイッチもハムも野菜も果物も買える。これはツアー中の心強い味方だ。安心して暖かいラッテと怪しいクリームチーズ入りの寿司セット、それが失敗した時の保険にサンドイッチを買って部屋に戻る。 孤独だ。改めて、アンジェラ・ヒューイットの「コンサートピアニストは、一人で旅行して、一人でレストランに入って、一人でホテルに泊まることに慣れなければならない」という言葉を噛み締めた。そういえば、日曜日にNYを出てから三日間、ピアノを触っていない。ピアニストというのは、身一つで旅行できるのは良いのだが、一旦ツアーに出ると練習ができなくなることが苦しい。今回は難易度の高い曲を弾くとあって、主催者に事前の練習機会をお願いしたのだが、結局ピアノに触らせてもらえるのは明日の午後5時、本番2時間前であった。 昼寝から目が覚めると、ポーランドに来て初めて陽がさしてきた。それは良い。カメラを持ってもう一度城に行くことにした。しかも今日はその音楽祭の初日で、本当なら二日目の演奏者の私も会場入りし、他のミュージシャンの演奏を聴き、挨拶をして友達になるのが望ましい。 まずは、城。夕日に大きく突き出した回廊が眩しく映る。こいつは壮観だ!中世の城は見張りが重要で、きっとそのためにこうして張り出した回廊を作ったのであろう。射してきた夕陽と色づいた紅葉、朝見た風景とは雲泥の差で美しい。なんと、この城は見学できる。運が悪く、ちょうどドアが閉まるところであった。が、明日の朝に見学をしよう。コンサート当日朝の城見学は下手なリハーサルよりもインスピレーションがある!(笑) さて、城の隣のコンサートホール、中に入って明日の出演者であると説明しようとしたが、セキュリティーに中々通じない。が、体調もイマイチまので、これ幸い、ホテルに戻って、一人で夕食を食べることにした。電子レンジでドイツのシュニッツェル風の豚カツを温めて食べる。 ソロピアノのツアーはとても孤独だ。明日の成功を祈って眠りについた。 (続く) |
第4話 城の町のジャズフェスティバル |
さて、時差ぼけが和らいできた。私は朝起きたらまずコーヒーを飲まなくては目が覚めない。ヨーロッパのエスプレッソでは量が足らなくて、備え付けのカプセルを全部飲んでしまった。なので、コンビニでネスカフェのインスタントコーヒーの瓶を買って、味はともかく今朝から無尽蔵にコーヒーが飲めるようにしておいた。英断である! さて、コンサートは夜なので、たっぷり時間がある。なので午前中は城の見学である。カメラを持って、暖かい格好をして二日目の町に出かけていく。 しかし人がいない。この巨大な城の見学者は終始私一人で、受付も私を見てどこかからやってきた。しかし陳列は非常によく出来ていて、城とこの町の歴史をオーディオガイドが語ってくれる。それによると、中世から、ドイツ人、ロシア人、オーストリア人が奪い合って争いが絶えなかったようだ。地政学の観点で見れば、ポーランドは陸のど真ん中であることから、周辺の国からの侵略は容易だ。その点日本はつくづく幸運な国である。攻め込もうにも遥々海を渡らねばならぬ。二度にわたる元寇を凌ぎ、鎖国によって国内に平和と発展をもたらしたのは海に守られていたからたと言えよう。ここにはPolandの国名通りフリーパスの草原があるだけである。 昨日から眺めていた高さも長さも40メートルのこの回廊は、中には井戸(?)が掘ってある。わざわざなんでそんな高いところに井戸を掘るのか疑問に思った。敵に攻め込まれたら最後はこの廊下を切り離して籠城するのだそうだ。そんな悲惨な戦いはあったのだろうか。 すっかり堪能してホテルに戻って昼食。まだ時差ぼけと旅の疲れと孤独感から、目覚ましをセットして昼寝。起きて、シャワーを浴び、コンサートの身支度。 10分歩き会場に入る。早速主催者が出迎えてくれて会場に案内してくれた。今夜の対バンがサウンドチェック中。チェロを弾きながら歌う身重の女性ポーカリストに、ピアノ、ベース、ドラムスが入ったカルテット。歌詞は全てポーランド語でリハが必要な複雑なジャズを奏でる。 マネージャーから、「クラシックの音楽祭であなたはバッハ中心の音楽を弾くのよ」と言われていたが、どうやらそれは連絡ミスで、これはれっきとしたジャズフェスである。となると、四日間触っていないピアノでバッハを弾くのは危険だ。ここは思いっきりソロピアノジャズを弾くことに急遽変更。私の演題はポーランド語で「Conversation with J.S. Bach」と印刷されていたが、そこは良いだろう。ピアノはスタインウェイだが、真ん中のソスティネートペダルが壊れている。それをテクニシャンに伝えるとすぐに直してくれたが、イマイチ歯切れが悪い。 グリーンルームで、本番10分前に再度曲を変更。ほとんど思いつきでジャズのスタンダードとオリジナルを混ぜることにした。これは地獄のようにしんどい。が、司会者には笑顔だけを見せた(笑)。長い紹介の後、ステージのスタインウェイBのピアノに向かう。まだ、体はぼーっとしているのだが、幸いなことに弾いているうちに楽しくなってきた。それに伴いお客さんの反応がよくなってきた。なんとか喋りも含めて50分の演奏を完了した。 対バンは、素晴らしいポーランドジャズであったが、演奏が終わると私のCDは飛ぶように売れ、写真とサイン大会が多いに盛り上がった。まだ歯の矯正をしているような女の子がお母さんに連れられて私のところへ来て、ピアノが素晴らしかったと言ってくれた。嬉しかった。地元の建築家の男性と友達になった。ここの城の改築工事も彼によるもので、あの40メートルの塔はトイレだと言い切った。確かに昔は下に川が流れていた。トイレは重要!と彼は念を押した。 対バン、(Sastad、ポーランド語でソンスタンド)のメンツと友達になり、来季のコラボ計画を語ってホテルに戻った。今までの孤独が嘘のようだ。 これでKwidzynの日程は終わり。初めてのポーランドのコンサートが成功し、ここに来て初めてぐっすりと眠った!誰に感謝をしたら良いのだろう。全ての人々だ!ありがとう! (続く) |
第5話 ポズナンへ |
昨夜のポーランド最初のコンサートが好評に終わり本当に嬉しく眠りについた。時差ももうほとんど無くなって希望を持って起きることができた。昨夜知り合ったミュージシャン、ファンの人たちとのメッセージのやり取りをしながら、昨夜買ったネスカフェのインスタントコーヒーを作る。 さて、今日は次のコンサートのある街、ポズナンに行く。ポズナンはポーランドで三番、四番に入る大都会で、ワルシャワがロシアの支配下であったならば、ここはドイツの支配下であった。ワルシャワから6時間かけてたどり着いたこのKwidzynからポズナンに行くには、また6時間かかる。今回のポーランドツアーは丸一日かかる移動日が多い。 次のコンサートの主催者がなんと駅で出迎えてくれるとのこと。なんという優しい対応だ。彼女に乗る電車をテキストする。 昨夜のコンサートでいただいた綺麗な花束(感謝!)を無理やりスーツケースに押し込んでホテルを出る。なんと駅の掲示板には、昨日のコンサートのポスターが貼ってある!駅の売店でポーランド風ホットドッグを売っている。これは買うしかない。アメリカのホットドッグに比べてソーセージが柔らかくて長い。それにパニーニのように軽くトーストした白く円筒形のパンにあらかじめケチャップとマヨネーズをいれ、そこにソーセージを入れる。このソーセージはParowka XXLと言うらしい。中々良い!ソーセージが柔らかいので、静かな待合室でも堂々と食べることができる(笑)。 二つ目の電車は、10分程の短い乗車なので、荷物の多い私は席に着かずに廊下にいた。午後の日差しが幻想的で、Polandの象徴的な緑の草原が広がる。するとどうだ、いきなり大きな川があり、そこに使われなくなった鉄橋がかかっている。iPhoneで一生懸命撮っていたら突然鉄橋が無くなった。ドイツ占領下の鉄道なのだろうか。壮大な景色であった。 Tczewという駅で乗り換え。晴れているのに雨が降るし、小寒いので美味しいコーヒーが飲みたくて駅のロビーに行く。通常はカフェが入っているところに、合鍵屋と靴の修理屋が入っている。駅の外に出ても店らしいものは何もない。ホームに戻ると先ほどの合鍵屋と靴の修理屋の看板が掲げてある。この町は、合鍵を作って靴を直すことが主な産業なのだろうか。 黄昏時にポズナン駅に着く。大都会だ!天使のように優しい主催者の女性がなんとホームで出迎えてくれた。大勢に人に混じって降りてくる私が解るのか心配であったが、向こうから見ればたった一人の日本人、しかも事前に写真が行っているので簡単に見つけてくれた。 挨拶とお礼のあと、タクシーで会場まで連れて行ってくれた。この会場、20世紀初頭にプロイセンのカイザー、ウィルヘルム2世が建てたインペリア・パレスなのだ。何故プロイセン?そう、ここは長い間ドイツの支配下にあった。そう思うと、この荘厳なゴシック建築のZemek(城)は悪代官様のような威圧感がある。が、その重い雰囲気を吹き飛ばしてくれたのが、城のあちこちに貼ってある私のポスターだった(笑)。三日間滞在する宿舎(ここではゲストのための宿泊所がある、しかも別の城なのだ。)にチェックインしてくれて、コンサート会場を案内してくれた。大きなコンサートホールにも、至る所にある掲示板に私のポスターが定期的に現れる。城の中で、庭が見渡せる格別の部屋に彼女のオフィスがある。かつてのウィルヘルム2世の皇后の寝室だそうで、女性的とも言える白い石のストーブが格好良い。ドイツのマンハイム製で、ドイツ支配下の産物である。 終戦の時、この宮殿は破壊することも検討したそうだが、結局残して使うことにした、と彼女は少し躊躇しながら話してくれた。「レコンキスタでアラブ人から国を奪回した時にスペインはアルハンブラ宮殿をそのまま使ったよ」と私は助け舟を入れた(優しい)。ちなみに、随分前であるが私が韓国に演奏旅行をしているときに、独立記念日(終戦記念日を韓国ではそう呼ぶ)に日本の総督府を解体した。 親切に場内を見せてくれた後、彼女はお気に入りのレストランに私を連れて行ってくれて暖かい食事をご馳走してくれた。今回のツアーで初めてのレストランである。ネギが入ったじゃがいものスープと焼いて美味しく味付けされたベーコンと豚肉、かなりコッテリしていたが、旅で疲れていた私には本当に美味しかった。 彼女が用意してくれた城の部屋に退散。私は城ではよく眠れる。その晩は嬉しくて最高の眠りについた。 (続く) |
第6話 ポズナンでのコンサート JazZamek #42 |
城の眠りは深くて良い。小雨だが素晴らしい朝を迎えた。窓から見える中庭は美しい。大変ありがたいことに、滞在中の朝食は主催者がレストランで出してくれる。インペリアルパレスを見上げながら、昨夜美味しく夕食をいただいたレストランに朝食を食べに行く。卵にベーコン、サラダに美味しいパン、そしてコーヒー。この国は(寿司以外)何を食べても美味しい。 今日は、天使のように優しい主催者の女性が、私の願いを叶えてくれて、前日に本番のピアノを2時間弾かせてくれることになっている。自分の宿舎の城を出て、インペリアルパレスに行き、ロビーで自分のポスターを眺めてコンサートホールに入る。その横に大きな回廊があって、そこに明日使うピアノ、ヤマハCSが置いてあった。本番直前に調律してくれるとのことで、今日は少し音程が甘かったが弾き慣れたヤマハのコンサートグランドはいつも裏切らない。今回もとても素直に反応してくた。しかもその回廊の音響が抜群で、思わず弾きまくってしまった。実は、今回のコンサートはライブレコーディングしてもらうようにお願いしてあり、うまくいけばライブアルバムをリリースする手筈を整えている。だったら、先回のようなぶっつけ本番ではなく、きちんとアルバムにできるプログラムを作っておかなければならない。鉛筆で五線紙に曲順を書き出す。実は、まだ作曲中の曲もあるのでそれを仕上げる(仕上がらない!)。 ふと手を止めて窓からの景色を眺めた。おそらくドイツ風の街並みなんだろう。午後の太陽が差し込んで本当に綺麗な景色であった。明日のコンサートが楽しみになってきた。チケットは前売りが随分売れているそうだ。ありがたい。 コンサート当日はスッキリと目が覚めた。向かいのレストランにビッグな朝食を食べに出かける。音合わせは午後4時。早めに会場に着くとさすがは調律とレコーディングのセッティングは既に終わっていて、弾くだけになっていた。普段ジャズクラブでの演奏が多い私には、観客を見上げるような階段式のコンサートホールの演奏は久しぶりである。 しばらくすると主催者の彼女が現れて、大きなグリーンルームに案内してくれた。なんと私一人というのに、彼女の手作りのケーキ、果物、ジュースにコーヒー紅茶、いたれりつくせりである。 これだけの大ステージではさすがに緊張したが、曲を追うごとに私もリラックスし、丁寧に曲を紹介して演奏した。今回ポーランドで演奏するという栄誉は8年前にリリースしたアルバムに始まった。私のある曲(Le Crepuscule)を、ご当地のジャズ評論家がいたく気に入ってくれて、自分のFM番組で紹介してくれ、素晴らしく好意的なレビューを書いてくれた。それから、随分と時間がかかったが、それが発端となり今こうしてポーランドの大ホールで演奏をしている。その評論家も来てくれた。写真と変わらぬ笑顔を見て本当に嬉しくなり、つくづく人の縁の大切さを思い知り感謝した。 オリジナルとジャズスタンダードを半々くらいで弾く。途中で、マリアというえらく綺麗なロシア人女性が花束を持ってきてくれた。 大きな拍車で三回ものアンコールを行って演奏を終了、終わってから人々の行列ができ、挨拶とCDの販売とサイン会と写真撮影が続いた。私がバッハのメヌエットをモチーフに即興で弾いたジャズ曲を、可愛らしい女の子の姉妹が気に入ってくれた。彼女たちもバッハのメヌエットを練習しているそうだ。 演奏後のお祝いに、主催者とその友達のソムリエの男性で静かな夜のレストランに出る。じゃがいものニョッキをご馳走になる。私が大食いであることを察知したのか、大きなアップルパイをデザートに頼んでくれた。 彼女はその日、同じ時間に、同じく有名なジャズフェスティバルがあり、客足を心配していたのだが、「ポスターが格好いいから、みんなこちらに来た」と説明してくれた。それはないと思うが、私の写真を非常に格好良くデザインしてくれたポスター、記念に一枚もらってきた。 キースジャレットが「音楽は演奏前と演奏後では人生が変わる」と言う。今夜私はそれを実感した。世界が変わって見えた。マリアがくれた赤いばらを持ってホテルに戻りぐっすりと眠った。 (続く) |
第7話 アンコール・ワルシャワ |
昨夜のコンサートの成功と人々の暖かい歓迎で人生が変わってしまった。ビッグな朝食を食べて、11時に主催者の天使のように優しい女性にお別れをして駅に向かう。午後1時の電車に乗れば薄暗くなる4時にワルシャワに着く。彼女に心からのお礼を伝え、持っていけない花束を彼女に託す。彼女が気前よくUberを呼んでくれた。 大きな駅に到着。さすが大都会、切符売り場は混んでいた。電車は指定席の特急。今回のポーランドの電車移動でいつも不思議に思っていたことだが、交通費が非常に安い。3時間指定席の特急で移動して、148PLN(37ドル)。ドルが強くPLNが弱いからだろうか。3時間というのは日本では東京大阪間の新幹線だ。結構な値段がしたと記憶している。 チケットを買って、列車の掲示板をみると、さすがヨーロッパ!外国の地名が掲示板に並ぶ。ワルシャワ行きは、2時間に一本。1時間以上待たないといけない。幸いにも駅の構内にも私の強い味方Zabkaがある。コーヒーを買ってベンチで待つ。ホームへ向かう途中、またしてもParowka XXL(ポーランドのホットドッグ)を見つけた。つい買ってしまう。美味い! 電車に乗ってすぐに大きな自動車工場が見えた。VW Poznanとある。私のオフィシャルカーであるVWはヒトラーが庶民が乗れる国民車(Folks Car、Volks Wagen)をポルシェ博士に作らせたことから生まれた。ヒトラーから委託された博士は、ポルシェを元に有名なビートルの原型を作る。VWとポルシェは兄弟なのだ。それがVWの発祥であるならば、ナチスドイツの支配下にあったポズナンにVWの工場があることは偶然ではないと思う。ということは、私はヒトラーが作った車に乗っているのだ。 これだけ移動が多ければ、車好きの私は当然車で移動するが、ポーランドはUSの免許証を認めていない。従って電車移動になった。が、ヨーロッパの電車は快適である。列車には食堂車があり、かなり美味しそうな食事をレストランのように食べることができる。ウェイターもウェイトレスも格好良いユニフォームを着ている。カウンターもあって、持ち帰りができ、私は早速コーヒーを注文する。改めて掲示板をみると、この電車はなんとベルリンからフランクフルトを経由してワルシャワまで行く国際電車なのであった。ヨーロッパの電車の旅は非常に快適だ。 電車がポズナン駅を出発した時には珍しく陽がさして大都会のシルエットを美しく照らしていた。がそれも束の間、次第に雲がかかりいつものどんよりとした緑の草原に変わった。私はすっかり安堵してよく眠った。 午後4時過ぎ、ほぼ定刻で列車はワルシャワの中央駅(Warszawa Centralna)に着く。数日ぶりに見るロシア占領下の匂いが残る大都会だった。 駅前にはハードロックカフェがある。NYから着いた夜は威圧的なロシアのビルに霧がかかっていたが、今日は中々おしゃれではないか!景色がきれいかどうかは、気分が大いに関係するのかも。ホテルは、前回と同じ場所、宮殿のようなアパートに帰る。奇跡寿司の大きな看板に心を引かれながら馴染みの宿にチェックイン。今回の部屋は前回よりもさらに広い。巨大なリビングルーム、フットバス、シャワー、バスタブがある大きなバスルーム、マスターベッドルーム、小さなベッドルーム、キッチン、そしてそれを結ぶ偉く長い廊下。贅沢。 夕食の時間だ。が、レストランに一人で入る気にもならないので、近くの馴染みのスーパーに行き、お惣菜を買い込む。バターとパン、クノールのインスタントスープ、新鮮なオーガニック野菜とドレッシングを買ってサラダを作った。美味い! これで仕事は終わり。明日から数日間ワルシャワとクラコーを観光しようと思う。 ポズナンは、人情味に溢れる素晴らしい都会だった。素晴らしいコンサートと素晴らしい人たちとの出会い、本当にありがとう! (続く) |
第8話 ショパンの初恋 |
ワルシャワの貴族のアパートで目を覚ます。贅沢はせずにネスカフェのインスタントコーヒーを入れる。ここはアパートなので立派なキッチンがついている。今夜もここで自炊だ! ワルシャワといえば、ピアニストでなくとも真っ先に思い浮かぶのはショパンだろう。昔、パリのペールシューズ墓地で彼のお墓を見た。非常にモテていて、たくさんの女性に取り囲まれていた。ショパンはワルシャワ郊外の家にポーランドの下級貴族の女性とフランス人の男性から生まれた四人兄弟の唯一の男性だ。彼が一歳の時に、父親がフランス語教師となりワルシャワの高等学校に赴任する。元々は貴族の宮殿であった校舎に家族で住まい、音楽に造形の深い両親、素晴らしい音楽の師の元存分に才能を発揮する。そして今ではショパンの名をかざした音楽大学に行き、恋をする(笑)。いくつかその軌跡を追ってみようと思う。 が、自他ともに認める歴史オタクである私は、フランス革命でギロチンにかけられた国王ルイ16世の弟、後に王政復古でルイ18世として即位するプロヴァンス伯の避難先も観ておきたい。「ベルサイユのばら」にも登場するルイ16世の祖父、天然痘で亡くなったルイ15世の妃は、ポーランドの皇女、マリー・レクゼンスカである。「いつも寝て、いつも妊娠し、いつもお産ばかりしている。」と嘆いた彼女は、ルイ15世との間に2男8女を出産した。と言うことはルイ15世の子供たち以降のブルボン王家にはポーランド王家の血が流れているということになる。 カメラを持って初めて街に出る。今日は珍しく非常に良い天気だ。コンサートが無事に終わり、重圧から解放された幸せな観光客になった。ホテルの周りは、駅方向にはビル街が続くが、南に行けば、瀟洒な建物がなるぶ中々良いところである。ロシア帝政時代の直線で出来た威圧的な建物と曲線を活かしたアール・デコのフランス風の建物が対照的だ。ロシアもドイツもポーランドを支配する国であるが、フランスはポーランド人の憧れの国である。以前フランスでレコーディングしたCDが、ポーランドでびっくりする程好評だった背景には、フランスへの憧れがあるのではないかとみている。事実、ショパンも二十歳で音楽の都ウィーンを経由してフランスで落ち着き、二度と祖国に戻ってはいない。ラジウムの研究で二度のノーベル賞を受賞したマリー・キュリーも若くしてフランスに行き、名前をフランス風に代えて研究活動をしている。私の知っているポーランド人のミュージシャンもパリに渡り、オペアとして生計を立てていた。 帝政ロシアの威圧的な建物が見えなくなると、おしゃれなストリートに差し掛かる。ここには良い感じのレストランが並ぶ。なんと、Tokyo Sushi、Oto Sushiなど寿司屋がたくさんある。その一件は専用のデリバリー車を何台も準備しやる気満々であった。 そのストリートを超えて、さらに歩くと、最初の目的地、Uniwersytet Muzyczny Fryderyka Chopina, (Fryderyk Chopin University of Music)がある。高校を卒業した若きショパンはこの大学で優れた師匠に巡り合い才能を思い切り伸ばした。そして初恋を覚える。相手の女性はコンスタンツィア・グラドコフスカ、「天使の歌声」を持つといわれたソプラノ歌手だった。彼女には当然寄ってくる男性はたくさんおり、コンスタンツィアの争奪戦が繰り広げられ決闘騒ぎまであったという。そんな素敵な女性に、内気な彼は告白出来るわけがなく、その想いは彼の作品の中で昇華されるだけであった。彼の曲を分析すれば彼の切ない片思いを旋律に感じることが出来るであろう。ただコンスタンツィアは後に彼の死を知った時「あの人は 空想にばかり耽っていて頼りにならない人だった。」と言ったと伝えられ、ショパンには全く興味がなかったようだ。 片思いのまま、彼はウィーンに旅立ち、最終的にパリに行く。ある音楽教育者の記事で「ステージにおける緊張」と言う記事を読んだのだが、ショパンは生涯で24回しかコンサートを行っていないらしい。ジャズピアニストとは発表の仕方に違いがあるが、それでも相当に内気で繊細な作曲家であったのであろう。 キャンパスには綺麗な建物と中庭がある。コンスタンツィアを巡っての決闘はここで行われたのか(笑)。将来のスターになりそうな女学生とすれ違った。マフラーの巻き方がおしゃれだ。楽器ケースを持っていないところから見ると歌手だ。コンスタンツィア・グラドコフスカの生まれ変わりか(笑)。 私はどこか我流のジャズピアニストであるが、今度生まれ変わったらこんな音楽院で学んでみたいものだ。で、コンスタンツィアのような女学生に出会ったら、果敢に決闘に挑むであろう(笑)。 出典 「ショピニストへの道~ショパンを極めよう~」www10.plala.or.jp/frederic3/ (続く) |
第9話 フランス革命の亡命先 |
ショパンの学んだ音楽院でショパンの失恋に思いを馳せた後(笑)、Park Łazienki Królewskie (Royal Łazienki Park) を目指す。ここは、ポーランド王家の夏の離宮である。川の真ん中に綺麗な白い宮殿があるのだ。 GoogleMapによると、電車で行ける。と言うので、駅で係の女性から切符を買おうとすると、それはトラムに乗るんだと言う。なるほど、と思いトラム駅を探すがえらく遠い。道行人に聞いてみると、それは別の電車ですぐそこに駅があるという。確かに別の駅が見える。切符を買ってホームに行くがどちらのホームなのかさっぱりわからない。電車を降りてきた女性に尋ねると、それはバスに乗るんだという。堪忍袋の尾が切れた私は、その場でUberを呼んだ。すぐに来てくれて目指す宮殿に連れて行ってくれた。15分ほどのドライブでなんと料金は$2.37。安くないかい?旅先では、自分で行き方を探して行くことに価値があると思っている私には邪道に思えるが、この便利さは救世主である。しかも景色がよく見える。短い滞在期間を有効に利用するにはUberは便利だ。 午後の美しい光が指す林の中を抜けると川があり、真ん中に白い宮殿が建っている。まさに夏の離宮である。ロッカーも係員もしっかりしているのに、チケットはタダである。フィールドトリップの学生が多くて少し興醒めだが。 素晴らしい!と言いたいが、実はここまで城を見てきている私は建築費用を削減したことがわかる。まず、壁の模様を筆で描いている。ベルサイユ宮殿では、これが色の異なる大理石の組み合わせで作られている。そもそもベルサイユには二つの離宮(グランド・トリアノンとプティ・トリアノン)があり、大きさも質感も比べ物にならない。しかもこのデザインはフランスの模倣である。これは高校の世界史の教科書で、絶対王政を確立したフランスはヨーロッパの中心となり、貴族の共通語はフランス語となり、至る所にベルサイユを模した宮殿が建てられたと習った通りであった。宮殿の前の水辺は、パリ郊外の王宮、ランブイエ(Lambuillet)を彷彿させる。それもそうであろう。この国王、娘をルイ15世に嫁がせたのだ。 水辺に二羽の孔雀がいた。一つは真っ白で非常に美しい。流石に人々の目を惹き写真を撮られていた。さらに奥の林に進む。林の中に小さな真っ四角の建物がある。White Pavilionと言うなが付けられている。ここがフランス革命中にルイ16世の弟とマリーアントワネットの唯一生き残った娘、マリーテレーズが革命中に亡命していた館のはずだ。もちろん、一家は補助金と安全を求めて転々としており、ここの滞在は長くはなかった。ベルサイユで生まれ育ったロイアルファミリーには狭く寂しく思えたであろう。が、スタニスワフ1世が王位を追われた時には、フランス国王が彼をシャンボール城で匿っていた。親戚同士の助け合いだ。 傾き始めた午後の太陽に照らされた林は美しい。更に歩くとOld Orangeryがある。オレンジを栽培するところ、即ち温室である。太陽光を最大限に取り入れるために、南向きの横長の建物は一面ガラス張りで豪華でありながら居心地が良さそうだ。Oldと名がつくだけあって、オレンジの栽培からロイヤルの劇場、鏡の部屋のごとく大きな回廊に模様替えしている。この宮廷の中では一番の見どころだと思う。いいぞポーランド! 日が暮れるにはまだ時間がある。今度はバスに挑戦。Old Townに出かける。そこには、離宮ならぬ本拠地の宮殿があり、古いポーランドの近世の歴史がある。今度はきちんと調べられバスに乗った。先ほど買ってポケットで眠っていたチケットが使えた。 地下鉄だと景色が見れないが、バスは沿線の景色がわかるからそれだけで観光になる。道中は目抜き通りを一望でき非常に嬉しかった。写真で見たOld Townが見えてきたので、急いでSTOPのボタンを押す。が、バスはどんどん進んでいってしまった。仕方ないので、歩いて戻ろうとすると、そこに看板がある。Pałac Młodziejowskich、なんと若きショパンが最初のパブリックコンサートを行った宮殿だそうだ。災い転じて福となす。バスが走りすぎてくれて本当によかった。 王宮前の広場に着く。色とりどりの御伽の国のような建物が建ち並ぶ。先ほど旅の味方Zabkaでサンドイッチを買って王宮を外から眺めながらながら食べた。が、見学するには少し時間が遅い。王宮は後日にして今日は退散することにした。先ほど覚えたバスで最寄駅FOKUSAIで降りる。 ワルシャワはエキゾチックな魅力に溢れる美しい街であった。 (終わり) |
第10話 クラクフ(クラコー) |
今日は、クラクフに行く。首都ワルシャワに継ぐポーランド第二の都市で英語ではクラコーと呼ばれている。17世紀初頭にワルシャワに首都が移る前はポーランド王国の首都であった。日本で言えば、さしずめ京都だろうか。その後1918年のポーランド独立までハプスブルグ家のオーストリア帝国の支配を受ける。因みに、ポズナンはドイツ、ワルシャワはロシア、ポーランドには3カ国に支配された苦難の歴史が続く。 Barbara W. Tuchmanの歴史書「A Distant Mirror」に、14世紀の貴族たちの話が出てくる。その頃流行した先が尖った奇妙な男性の靴をクラコーと言う。ここが発祥のようだ。流行はエスカレートし、中には先端が1メートルにも達し、紐で吊り上げなくればならない靴もあったとか。実用的でないことが、労働をしない特権階級のシンボルであったそうだ。 近年クラクフは多くのユダヤ人が住んでいた街で、第二次世界大戦中にここを占領したナチス・ドイツは、クラクフ・ゲットーを作りユダヤ人を集めた。塀にはユダヤ人の墓石を模した石を使った。ゲットー襲撃の様子は映画「シンドラーのリスト」で目を覆いたくなる残忍なシーンが描かれている。実業家シンドラーの工場はこの街にあり、彼は自社の工場でゲットーのユダヤ人を雇い、収容所に入れられた者たちの救出で私財を投げうった。 ワルシャワからは3時間かかるので、まだ暗いうちに起きて電車に乗る。車中で男性の座席を見つけるのを手伝ったら「スパシーバ」と返ってきた。ロシア人なのだ。日が昇る中での霧に囲まれた草原(Pol)は本当に美しい。まさにPolandだ。電車は快適で、滑るように早朝のクラコーに着く。活気があって良いバイブが伝わってくる。早速中世のオールドタウンに行く。狭い道がとても歴史的で、赤、青、白の色使いがとても良い。沿道にはつい入りたくなるようなレストラン、ピザ屋やイタリアンレストランが並ぶ。中世の街には必ず真ん中に広場がある。ここもそうだった。コーヒー党の私は朝のコーヒーが一杯飲みたくて開店準備中のレストランの店先にあるコーヒーコーナー(格式のあるレストランなのに、こうしてコーヒースタンドを出すところ商魂たくましい)に行って声をかける。バイトの人がまだ来ていないのか、オーナーの格好良いジェントルマンが直々出てきた。「君は日本人かい?」「そうだ」「ウチの娘が大学で日本語を勉強して、今はスコットランドに住んでいる。ここの日本語のメニューも彼女が作った。旅行者かい?」「ピアノの演奏旅行で来て、終わって観光している。」「それはすごい。店にSteinwegのピアノがある。中においでよ。見せてあげる。」という具合で一杯のコーヒーで店のツアーをしてくれた。私がNYでお世話になっているSteinwayピアノは、そもそも本国ドイツではSteinwegであった。この店は、彼のひいおじいさんが始めた店で調度品は全て当時のままだとか。古いコカコーラの販売機が置いてあった。ポーランドは大学で日本語を教えるらしい。基本的に日露戦争からポーランドは親日国と言われている。日本はポーランドのユダヤ人を救った歴史もある。 広場を歩いてみる。さすがカトリックの国、周りに荘厳な大聖堂と教会がいくつも建ち並ぶ。教会の塔は非常に高く、左右異なった塔が天に伸びる。これは中世の人には神にも届く程高くそびえて見えたに違いない。アーケードや市場の建物もある。至る所に都市の紋章が描かれており、かつてのポーランド王国の首都であることはわかる。歴史的な建物に混じって、ハードロックカフェがある。歴史と現代がうまく混ざりあった活気のある街だ。 私はフランスとUKの王朝の歴史には詳しいが、ポーランドの歴史には弱い。ポーランドの王はフランス国王ルイ15世(ベルサイユのばらにも登場する天然痘で亡くなったヨーロッパ一の美男子)に嫁いだマリー・レクザンスカ妃の父親、スタニスワフ1世しか知らない。彼は、革命で退位させられ、フランスのシャンボール城で亡命生活を送るが、その700年前、カジミェシュ3世が970年に建て始めたヴァヴェル城が、1596年に首都がワルシャワに移転されるまでの王宮であった。まさに京都だ。城は外から見ると大迫力で迫ってくる。ヨーロッパ最大の大きさを誇る時計とタペストリーがあるらしい。城の中を見学する時間がなかったことが残念だ。 この街は、ナイトライフも充実していて、中世の建物と新しい店が共存する素晴らしい夜景であった。次回はジャズクラブの演奏を企画して、朝に城見学をしよう! (続く) |
第11話 ワルシャワの水餃子 |
ワルシャワ最後の日、昨夜のクラクフへの日帰り旅行で、心身とも疲れ切った私は、アパートの超豪華なバスルームで朝湯に浸かることにした。午前中をゆっくりと過ごすと段々と心と体が戻ってきて、急にお腹が空いてきた。友人や奥さんがポーランドにいるんだからポーランドの郷土料理を食べなさい、というのでGoogleMapで見つけた郷土料理を食べに行く。途中に閉まってはいたが風変わりな店がある。Taiyaki Wawという看板がある。よく見ると、アイスクリームのカップにたい焼きが口を開けて逆さに突っ込んでいる。さすがは親日国(笑)! 目指すレストランはGOŚCINIEC、ホテルから7分、ショパンの学校を見に行くときに通った例のおしゃれなストリートにあった。ここは郷土料理、Polskie Pierogi(ポーランドのラビオリ)が売りである。早速注文仕様とメニュー見ると、中に入れる具はさまざまで、まず焼くか茹でるか聞かれる。なんと甘いデザートとしても食べることができるそうだ。まずは最もオーソドックスなジャガイモで茹でてもらった。中々シンプルで良い。というか、はっきり言って餃子である。早速写真をSNSに載せたら、「水餃子食べてんの?」と日本から反応があった。それに、奥さんおすすめの酸っぱいスープ。体が温まった。この店とてもオシャレなのだが、一人でも気軽に入れて(というか客のほとんどが男性お一人様であった)。働く人のランチタイムなのであろう。ご主人がずーっと外で客引きをして、可愛い娘さん(?)がウェイトレスをしていた。 随分と満足して、ワルシャワの最後の午後を楽しむ。中心街のオールドタウンはこの通りをまっすぐ歩けばそれでいい。折しも明日の出発日、11月11日はポーランドの独立記念日で記念式典や行事が沢山あるそうだ。そのため、街では武装した警察や機動隊の警備が厳重で、少し緊張する。が、いきなり、先ほど食べたポーランド餃子の着ぐるみが出てきて愛想よくビラを配っていた。さっき食べたばかりです。申し訳ない。どこの国もそうだが、ポーランドでも若い女性はとても可愛らしいくオシャレだ。カメラを構えていると入ってきてしまう(笑)。 Societas scientiarum varsaviensis (Warsaw Scientific Society)になっている宮殿、Staszic Palaceの前には、15世紀の物理学者コペルニクスの像がある。凛々しい。「コペルニクス的転回」とは天動説が信じられていた世界に地動説を唱えたことからきた言葉だ。 さらに歩くと、ワルシャワ大学がある。この中に、Pałac Kazimierzowski(カジミエシュ宮殿)がある。今は大学の一部に組み込まれている建物だが、ロシア帝政時代は高等学校で、ショパンの父親はこの学校のフランス語教師となり、一歳のショパンと家族はこの建物の中にあった寄宿舎で生活を始める。友人にも音楽教師にも恵まれ、彼は充実した少年時代をここで過ごす。そして思いっきり音楽の才能を開花させる。ここに住んでいれば、それはアカデミックで良い環境だろう。 ショパンといえば、ワルシャワ郊外のジェラゾヴァ・ヴォラ村に、1810年に彼が誕生した生家があり、ショパンマニアは人気の場所だそうだ。が、火事で焼けて建物は全て再建、ショパンも一歳でこのカジミエシュ宮殿に引っ越してきた。「三つ子の魂百まで」という。となるとショパンは生家のことなど覚えていないであろう。と言う結論をつけて私はジェラゾヴァ・ヴォラ村には行かず、このカジミエシュ宮殿を見ることにした。 ショパンの成長を見守ったその建物の前を、今はワルシャワ大学の賢そうな美男美女が闊歩している。明日の独立記念日のイベントなのだろう、ステージの設営で人や車の行き来が激しかった。 (続く) |
第12話 王宮からの逃亡劇 |
さて、今回のポーランド旅行の最後の目的地、Zamek Królewski w Warszawie(Royal Castle)に行く。私が昨日訪れたクラクフから17世紀初頭にワルシャワに首都が移転して以来、ここがポーランドの中心地であった。と言うことは、この王宮がフランス国王ルイ15世に嫁いだマリー・レクザンスカ妃と父親スタニスワフ1世の居城だと言うことになる。それを確かめなくては。 通常私は買い物にはクレジットカードを使うのであるが、コンサートで販売したCDの売り上げがあったので、現金で入場料を払って城に入る。またしてもフランスを比べては申し訳ないのだが、小ぶりな宮殿だ。飾ってある写真を見てびっくりした。この城とこの町一帯は、第二次世界大戦のドイツ軍の爆撃で焼け野原になっていた。これは全て再建なのだ。因みに京都の文化財は大戦中爆撃されなかった。 煌びやかな玉座の部屋を抜け、肖像画の部屋でマリー・レクザンスカ妃と父親スタニスワフ1世の肖像を確認。やはりそうであった。ここは彼女の実家である。 が、ここで珍事件が起こる。係の女性が私に同行を求めてきた。理由を聞いても、英語では「Come」の一言。私が何かやらかしたのであろうか。やんわりと逃げて別の部屋に行くが、結局そこを通らなくてはならない。また同行を求められ、今度は複数の係がやってきた。説明はない。これはやばい。彼女の目つき、雰囲気、第六感で逃げるが勝ちと判断すると、トイレに行くふりをして地下階に行き、コートロッカーから預けてあったバックパックとジャケットを取り、帽子を替え、黒いシャツの上に白いジャケットを着、メガネを替えて変装(笑)した。ふと見ると、フィールドトリップの学生たちが大勢裏口から退居していたので、これ幸い、腰をかがめて生徒に紛れて外へ出た。脱出は成功だ(笑)。レミゼラブルの背景、フランスの二月革命で、市民王ルイ=フィリップが、軍服を脱いでフロックコートとシルクハットに着替えて、辻馬車でチュイルリー宮殿から脱出した話を思い出した。 もし、私が本当に法に触れるようなことをしていれば、警察が正式にやってくるだろう。そこで説明を求めれば良い。入場料をクレジットカードで支払わなくて本当によかった。セレブが現金で買い物する訳だ。 が、これは差別だ。マイルス・デイビスの自叙伝を読むと、彼がジャズの帝王として人々から賞賛の眼差しを集める一方、警察からの不当な職務質問やさまざまな差別を受ける。私のコンサートでアンコールの拍車を惜しみなく送ってくれ、列を作ってサインを求めてくれるポーンランド人と、人種差別で連行しようとするポーランド人。私もマイルスと同じ体験をした。 第二次世界大戦でのポーランドの民間人の死者は578万人。ヨーロッパでダントツ一位。原爆を投下された日本ですら80万人。その七倍だ。因縁なのかトラウマなのか、ポーランドの傷は深いのかもしれない。先ほどまで輝いていたワルシャワの景色が急に暗くなり、銃を持った警備員たちがゲシュタポに見えてきた。 暗くなってもホテルには誰も追っかけて来なかった(笑)ので、気を取り直して食事に出る。最後の晩餐だ。店を探すのが億劫になっていたので昼間と同じレストランに行く。ヌードルスープとポークとジャガイモのシチューが傷ついた心を暖かくしてくれた。 食後、ストリートを歩いてみる。アメリカの独立記念日、フランスの革命記念日程ではないが、若者が楽しそうに集っている。華やかなショーウィンドウには南仏の石けん、ラベンダー、香水、マカロン、クロワッサンなどとフランスものの店が並ぶ。やはり、そうだ。この国が頼りないが愛嬌のある「のび太」だとしたら、ドイツは「ジャイヤン」で、フランスが「静香ちゃん」なのだ。ホテルに戻り11泊分の荷造りをする。爆睡。 翌朝、ネスカフェのコーヒーを飲んで、ズルをしてUberで空港に行く。ドライバーに「Air France」と告げると怪訝そうな顔をされた。そうなのだ。JFKやCDGと違って、ここの国の首都の空港にはターミナルが一つしかない。 おりしも今日は、11月11日、ポーランドの独立記念日だ。お祝いと感謝の言葉をSNSに残してショパンのウオッカ(?)を土産にパリに発つ。 最後に素晴らしいご褒美をいただいた。翼の下に広がる壮大で芸術的な夕刻のパリ、そしてリンドバーグがスピリットオブセントルイス号から「翼よ! あれが巴里の灯だ」と叫んだ夜のパリ、ショパンはここで死んだ。 ポーランド様、独立記念日おめでとうございます。そして素晴らしい体験に心から感謝。I ❤️️POLSKAです、もちろん。 (終わり) |
Camera: Canon EOS R6 & iPhone X
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