プロビンスタウン

Letter from Greenwich
Vol. 2
Late Summer 2003


Takeshi Asai

 

【フォトジャーナル】 プロビンスタウンのいかだで家を運んだ人々  (写真をクリックするとフォトアルバムが開きます)

プロビンスタウンからロングポイント灯台を望む

バケーションをケープコッドで過ごした。マサチューセッツ州にある腕の格好をした半島がケープコッドだ。1620年メイフラワー号が清教徒たちを乗せて大西洋を渡りプリマスにたどり着いた事実はあまりにも有名であるが、そのメイフラワー号がプリマスに着く前に、ここケープコッドに数日立ち寄ったことはアメリカでもほとんど知られていない。ニューヨークから車で6時間、そのケープコッドの先端に19世紀からポルトガル人たちが入植してつくられた海がまことに美しい町がある。私が愛してやまないプロビンスタウンだ。

私は本当にこの町が大好きだ。ここの海はどういうわけか他とまるで違う色をしている。朝の深い青が夕刻には鏡のような銀色となり、それが太陽の位置と天候で刻々と変わる様子はたとえようのない美しさだ。私は毎年ここへやって来てこの海を見るが、そのたびにため息がでる。そしてもうひとつ私をとりこにしたものはその地形の妙である。ケープコッド自体、付け根から先端まで車で一時間半かかる大きな半島であるが、その先端からはさらに砂だけでできた細い半島、その名も Long Point (長い先端)、が伸び、その先端の先端に今も使われている灯台がある。昼間は太陽の光を反射して遠くからでも白くくっきり見える。私は来るたびにその灯台を眺め、何とかそこまで行ってみたいとは思うものの実行できないままでいた。

ある年の夏、資料館で面白い歴史について知った。プロビンスタウンの町はかつてその砂の半島の先っぽにあり、ポルトガル人の漁師たちが大勢住んでいたというのだ。1818年に最初の灯台ができて人々が住み始め、最盛期には漁業と塩づくりで38世帯、200人もの人が住んだ。現在の石造りの灯台ができたのは1826年で、4年後には灯台の建物で最初の学校が開かれた。生徒は3人だったという。ところが、面白いことに1850年頃魚が移動してしまい遠くまで出なければ漁ができなくなると、真水に不足するような半島の先に住む利便性がなくなり、人々は38件の家をひとつひとついかだに乗せ、海を渡って対岸の今のプロビンスタウンに運んだというのだ。しかもその家は今も現存し、ひとつひとつ青いタイルに白でロングポイントといかだ上の家をデザインしたレリーフが掲げられているという。1861年から65年の南北戦争の時は、ジョン・ローゼンタールという指揮官が来て、ロングポイントに土を盛り要塞を作った。一度も使われることのなかった要塞を地元の人たちは、Fort Ridicurous (おろか要塞)と Fort Useless (無用要塞)と名づけた。1867年に最後の家が運ばれ、ロングポイントの50年の歴史に幕を閉じた。

私たちはなんとしてでもロングポイントに行くことにした。といっても交通機関はまったくない。ひたすら岩場を45分、サンダルに履き替えて砂浜をさらに一時間、とにかく歩くことしかない。でも景色は雄大だ。途中で難破船を見つけた。さらに進むともう一つ桟橋に留まった船がそのまま風雪で洗われた残骸も見つけた。その残り具合からしてロングポイントの漁師の時代のものであろう。Fort Useless を見つけた。要塞といっても小高い丘でしかない。期待して上って見ると、砂地とその向こうに海が広がるだけで、かつて学校まで作って栄えた集落の跡は何ひとつなかった。そこから灯台とFort Ridicurous が良く見えた。遠くからでも見えていた灯台は近ずくと本当に小さなものであった。それ以外そこには何もない。誰が掛けたのであろう、古い杭にポルトガルの国旗が掲げてあった。灯台を過ぎてとうとう先端にたどりついた。緩やかなカーブを描いた石のビーチには透き通った冷たい水が流れていた。対岸のプロビンスタウンを見た。150年前、いかだに家を載せてこの海を渡ったのだ。しばし石の上に座り足を水に浸して感銘にふけってみた。 いかだで運んだ家のレリーフ

早速町で青いタイルのレリーフを探してみた。幸運にも二件見つけることができた。みな驚くほどに大きな家で、これをいかだで運んだとはとても信じがたい。しかも最後の家を運んだ1867年は大政奉還の一年前、日本では江戸時代である。動力は馬しかない時代に一体どうやって運んだのだろう。地元の人が声をかけてきてくれた。写真を撮りながらゆっくり歩いている我々を見て道に迷ったと思ったらしい。「私の両親はポルトガルから来た。このあたりはみんなポルトガル人よ。」とやさしいおばんさんが教えてくれた。「私はここのポルトガルのドーが好きで毎年来たら必ず Pouruguese Bakery に行って食べる」と言ったら「その向かいにあるレストランもポルトガル人がやっている」と教えてくれた。もちろんそこはポルトガル・オタクの私たちがいつも最初に行くレストランであった。

ドー(Dough)とは練った小麦粉を手で伸ばして油で揚げて砂糖を振りかけただけのシンプルな揚げパンだか、なぜかすごく懐かしい味がして私は店の前を通るたびに買ってしまう。そのベーカリーの店がまたよい。元気のよいポルトガル人のおじいさんが家族の若い衆を切り盛りしていて、運がよければおじいさんのポルトガル語が聞ける。壁には色あせたリスボンのポスターが貼ってある。おじいさんの思い出の場所なのだろうか。毎年来る前におじいさんが健在かどうか心配するのだか、いつもそんな心配は無用とばかり元気よく働いている。今年もそうだった。

自分が異国で暮らしているからかも知れないが、私は移民たちの歴史に惹かれる。新天地を求めてはるばる大西洋を渡ってきてここに住み着いた人たち。魚を追い、魚がいなくなれば家をいかだで運んだ人たち。ひょっとしたら帆船で大西洋を渡ってきたポルトガルの人々には、いかだで家を運ぶのは容易いことだったのかも知れない。

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